桶狭間合戦

永禄3年(1560)5月19日 織田信長 対 今川義元

通説による桶狭間合戦の解釈の多くは間違っていると考えられる。
この合戦を仕掛けたのは織田信長であり、今川義元は、仕掛けられ受けて立った立場である。
このことは、信長研究の中心資料である『信長公記』に記されている。
『信長公記』の内容を見てみよう。

まず信長は、今川軍の占領下にある鳴海城と大高城を包囲した。
(包囲した時期は不明であるが、この年の1月に織田軍は、東尾張の品野城の包囲攻撃を行っているので、鳴海城、大高城を包囲するのは2月以降であろう。長期の包囲によって鳴海城、大高城は、兵糧が枯渇しつつあった)

5月に今川義元は、領域全体に動員を掛け、自らが動いて、鳴海城、大高城の後詰に出た。

『信長公記』には、以上の記述が見られる。

信長の勢力は、今川義元の三分の一ほどであるが、小勢力であるからと言って、
常に受身ではない。
桶狭間合戦の6年前に行われた村木合戦では受身であったが、品野城合戦、桶狭間合戦では攻勢に出ているのである。

この“信長攻勢”の事実を見誤ると合戦全体の解釈を間違ってしまう。

今川家と織田家との戦争状態は信長の先代の織田信秀の時代に始まっており、勢力接線上のいたるところで合戦が行われている。
信長の代になってからも、村木(知多半島緒川)、品野(東尾張)、蟹江(西尾張)、桶狭間と、
場所を変えて合戦が起こる。
戦線のそれぞれの場所で戦闘が激化し、主力軍による合戦にいたるには、
戦術的理由が存在する。

桶狭間合戦の場合は、信長が戦術目標とした鳴海城、大高城の包囲戦が引き金になっている。

桶狭間合戦の中心軸は、織田信長が仕掛け、それに乗って後詰に出た今川義元が、
後詰決戦のなかで討ち取られた戦いである。

合戦の詳細解釈は、この軸を踏んで進めなければならないのである。

桶狭間合戦鳥瞰図の解説

(桶狭間合戦鳥瞰図の解説)

桶狭間合戦は海岸で行われている。
画は織田信長の軍と、今川義元の前衛とが決戦を開始する直前状況。
この後、織田軍の攻撃により、今川軍はパニックを起こして壊乱する。
その混乱の中で、今川義元は敗死する。画は戦場を北西から見たもの。
(考証・作 画/藤井尚夫)

(学習研究社『歴史群像』NO.10に掲載より抜粋、加筆)

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