要塞都市ベルダンの防禦戦

第一次大戦のターニングポイント 要塞都市ベルダンの防禦戦

丘陵が続くベルダン付近の地形

丘陵が続くベルダン付近の地形。 ベルダン郊外の丘の頂部には、堡塁が点在する。 ベルダン一帯を北東方向から見たもの。右遠方がパリ方面。

海底だった平原

パリからベルギー、ドイツにいたる平原は、太古は海底だったという。
鉄道からの眺めに山は無く、大きくうねる丘陵が畑や牧場となって、たんたんと続き、
川がどちらに流れても不思議ではない光景が広がる。

この景色を見ていると、この地がかつて海底であったとの説を納得できる。
この平原で行われる戦いは「人」が流れを決める。
だれがどの方向に攻めるのかを地形にゆだねず、人の都合で決定できるのである。

1914年8月3日、ドイツがフランスに宣戦を布告した。
第一次大戦の始まりである。
独仏国境はそのすべてが戦線になり得た。

独軍の行動計画はこうだった。
独軍の左翼はほとんど進撃せず、右翼が大攻勢をかける。
右翼は全軍が同じスピードではなく、独軍の中央部近く(左翼との接点)はゆっくりと、
最右翼は最大速力で前進する。
独軍右翼は、左翼との接点に軸を持つドアのように、反時計回りでフランスに侵攻する。

そしてそのままそのドアは、180度回転し仏軍を自軍の左翼との間に挟んで
撃滅しようとするものだった。
かつて海底だった平原は、この様な運動戦を可能とする。
そしてベルダンの町は、その戦線のほぼ中央にあり、独軍右翼は、ベルダンを軸にして
回転することになった。

要塞都市ベルダン

縦横に交通網が開けるフランス東部は、軍事行動に制限が少ないため、
防禦の要点となるのは、自然の隘路のような緊要地形ではなく、戦略的価値を持つ都市になる。

これは時代を超えて共通しており、ローマ時代から都市防衛に力が入れられていた。
ヨーロッパにおける都市防衛は、ローマ以来直立した城壁で囲んでいたが、大砲の普及により、一六世紀はじめにイタリアで考案された稜保式城壁で囲むようになる。

そして一九世紀はじめ頃に大砲の射程距離が伸びたため、都市から数キロメートル離れた
郊外に独立した保塁砲台を点在させる時代へと進化した。

ベルダンは、パリから、ドイツ・ポーランド方面へ至る主街道上にあり、交通の要衝であった。
843年にはフランク王国の三分統治を決めた「ベルダン条約」が締結された場所であり、
またナポレオンは、モスクワ遠征時にここを通過している。

日本ではなじみは薄いが、フランスでは有名な都市である。
第一次大戦直前、国境近くのベルダンでは、ヨーロッパ都市防衛の変革を観察できる。
大砲が普及する以前の城壁がその一部を残し、そしてルイ十四世の時代の稜堡塁壁が囲み、
さらにその稜堡塁壁のずっと外側に、独立した堡塁砲台を点在させた近代の都市の
防衛システムを取り入れているのである。

ベルダン要塞地帯は、ベルダンの町の周囲の丘に、多くの堡塁を設けて防禦戦闘を想定したものである。ドーモン堡塁は、独軍の攻撃正面にあった堡塁であった。この方面で熾烈な戦闘が行われた。

ベルダン要塞地帯は、ベルダンの町の周囲の丘に、多くの堡塁を設けて防禦戦闘を想定したものである。ドーモン堡塁は、独軍の攻撃正面にあった堡塁であった。この方面で熾烈な戦闘が行われた。

要塞は戦ったのか

大戦が始まって二年後の1816年2月 独軍はベルダンに大攻勢をかけた。

全戦線から見るとベルダンは、ドイツ軍の制圧域に突出していた。
パリからベルダンへの幹線鉄道は独軍に押さえられ、「聖なる道」と呼ばれた道路一本が
主な補給路でしかなかった。

独軍の大攻勢の前には、点在する堡塁だけでは防禦は成り立たない。
堡塁と堡塁の間や、その前方一帯に塹壕が幾重にも掘られ、歩兵はそこで銃撃し、
手榴弾を投げ合う。

準備周到な独軍は、攻城砲で堡塁や、付近の臨時の塹壕を砲撃する。
堡塁内の砲は、接近する歩兵に対するもので、独軍砲兵の攻城砲に対抗できない。
仏軍後方に砲兵の増強が必要となった。
堡塁建造時点に考えていた防禦戦闘の想定と、実戦は違った展開を見せたのである。

独軍歩兵が接近する以前は、堡塁は反撃出来ないが、堡塁内は一個大隊を最前線に
長期間生息させうる拠点である。
この拠点を持つ仏軍は、頑強な接近防禦戦を展開できた。

実質的には、単なる地下休息空間となった堡塁だったが、丘陵頂部の要地にあり、
攻撃目標であることには変わりない。

また仏軍にとっても個々の堡塁は、軍と国民の士気高揚のため、象徴的な防禦対象で
あり続けた。

ベルダンでは、二月に始まり八月に独軍が攻勢を停止するまでの間に、独軍28万1千人、
仏軍31万5千人の死傷者を出した。
パリの総司令部では「1日に一個師団が消えてゆく」と頭を抱える。

仏軍のこの大消耗を支えたのは、開戦以前は補助輸送手段とされていた“自動車”だった。
フランス全土からかき集めた4千台のトラックが、兵員・弾薬・食料を運び続け、
大消耗戦を支えたのである。

独軍の攻撃開始時点のドーモン堡塁 堡塁は、砲座・機関銃座があり周囲には堀がめぐりその外を有刺鉄線で囲んでい る。戦時には、その周囲に塹壕が掘られた。

独軍の攻撃開始時点のドーモン堡塁 堡塁は、砲座・機関銃座があり周囲には堀がめぐりその外を有刺鉄線で囲んでい る。戦時には、その周囲に塹壕が掘られた。

ドーモン堡塁図

ドーモン堡塁図 ベルダン要塞地帯の堡塁は全て同じ形式ではなく、個々に違ったデザインとなっている。航空機の無かった時代に設計されており、対空警戒はまったく考慮されていない。全周の砲撃が可能な砲塔の、75mm砲と、155mm砲は、短身砲であり遠距離の砲撃は出来ない。75mmカノン砲は、左隣の堡塁の援護が可能な位置に設けてある。

ベルダンが残したもの

ベルダン要塞の攻防は、いくつかの教訓を残した。
一つは「要塞による戦争抑止論」である。
ベルダンの要塞が独軍の攻撃を阻止したとの一面的観察から、要塞さえ建設すれば
戦争が興らないと短絡的な戦政略を導き出したことである。
実戦で要塞は足場を提供したが、防禦の主役は塹壕の機関銃と、消耗品となって
倒れた歩兵だった。

二つ目の教訓は、鉄道に頼らず、内燃機関(エンジン)で走るトラックが消耗戦を支えぬいた
事実から得たものである。
大戦前、鉄道網が発達したヨーロッパでは、軍隊の展開をスピーディーに行うには
鉄道が必須だった。
「戦争」は鉄道の「お得意さん」だったのである。

しかし内燃機関がキーとなったベルダンの補給体勢は、軍隊の鉄道離れが可能なことを
証明した。
第一次大戦では、後の機動戦の主力となる航空機・戦車が内燃機関を得て産声をあげたが、
機動戦、物量戦を支える補給システムも、内燃機関をキーにベルダンで完成していたのである。

(学習研究社『歴史群像』NO、41に掲載より抜粋、加筆)

©Hisao Fujii