天皇の防空壕(参謀本部付属会議室)

計画のスタート

防空室建設までの経緯を見ると、この昭和16年に作られた防空室が、
宮城内の最初の防空施設ではない。
この数年前から宮内省(現在の宮内庁)では、緊張深まる世界情勢を考え、何らかの防空施設の必要を感じ、準備を進めていた。

宮内省内でこの様な施設を計画する部署は工務部である。
宮内省工務部は、東京大学と建設会社である大林組に相談を持ち掛け、研究を行い、
建設を開始した。

この宮内省主導による防空建造物は、宮城の吹上御苑の森を切り開いて作った「御文庫」と呼ばれた建物であり、戦後も天皇の居所として使用されたものであるが、これとは別に地上四階鉄筋コンクリート造りの建物がある。
この四階建物の各階のスラブ(床の厚さ)は約15cmであり、一般のビル構造となっていた。

宮城の吹上御苑の中は、樹齢300年を越す樹木も多く、四階程度の建物は樹木の間に収まり、上空からの発見はほとんど不可能である。

これらの防空施設は昭和15年に工事が始められ、年を越した16年に完成した。

昭和天皇の「御文庫」利用の開始は、昭和20年5月29日の空襲で、
明治宮殿が焼け落ちた後に移り住み、天皇の疎開生活が始まったと説明される事が多い。

しかし実際は対米英戦以前から天皇は御文庫を利用していた。
昭和天皇にとって、明治宮殿に隣接した御所よりも、世俗から切り離され、吹上御苑の自然林に囲まれ、プールも設備された御文庫は、より好ましい空間であり、最も近い「御用邸」(天皇の別荘)のように感じていたのではないだろうか。

陸軍大臣東条英機の計画

御文庫が完成した昭和16年は日中戦争の最中である。
昭和14年7月に米国は「日米通商航海条約」の破棄を通告。

その後、16年3月に日米和解交渉が始まるが進展は見られず、4月に米国内で戦争準備が
開始されたという報告が届いた。
いつ日本と、米英との間で戦闘状態が発生してもおかしくない時期である。

この状況下で宮城内に防空施設の必要を感じたのは、宮内省だけではなかった。
時の陸軍大臣東条英機も同じことを考えた。

東条陸相は、宮内省の防空態勢の調査を築城本部に命令。
築城本部員は宮城内の施設の調査を行い、宮内省が防空施設として造った“御文庫”と
“四階建築”は、直撃弾には耐えらず防空施設ではない、との結論をだした。

この報告を受けた東条陸相は、陸軍築城本部長の野口正義中将に、
宮城内に本格的な防空施設を作ることを命じる。
昭和16年6月はじめである。

この命令を受けた築城本部では、ただちに設計にかかり工事日程の見積りを陸相に提出。
16年7月着工、12月完成の計画であった。

設計責任者は築城本部の浄法寺中佐(当時)と松木中佐である。
計画書を見た東条陸相は納得しない。
工事に必要な人員は陸軍部隊から何千人でも出す、費用はいくらかかっても構わない、
但し9月に工事を完成させよ!との厳命であった。工期は半分になった。(注2)

この時点で陸相東条英機は、対米戦争の年内開始がありうると考えていたのだろう。
この工事は『戊号工事』と名付けられ、陸軍第一師団を動員し、極秘で行われる事が
決定された。

占地

七月に工事を開始するには、六月中に場所の選定と施設の設計を完成させなければならない。
吹上御苑内を踏査し、苑内の北の一角に「地主山」と呼ばれている比高約25mの小山を
最適地と考え、設計を開始した。

対ソ戦

設計を進めていた6月22日、突如独軍がソ連に攻め込み、独ソ戦が開始された。
ドイツと同盟を結んでいた日本は、あわてて対ソ戦準備を開始する。
対米戦以外に、対ソ戦の可能性も発生したのだ。

ソ連のウラジオストクを軸にして半径1200kmの弧を描くと、日本の主要都市の多くが
その弧の中に入る。
ソ連は昭和5年(1930)に初飛行させた4発の重爆撃機「ツポレフTB-3」を持つ。

TB-3は技術的完成度は低いとの評価があるが、航続距離は2400kmを越え、
論理的には日本本土の殆どが爆撃可能であった。

6月22日以降『戊号工事』は、対米睨みではなく、対ソ脅威に備えるものになったのである。

防空室切断俯瞰図

防空室切断俯瞰図


注2)このとき浄法寺中佐は驚愕した。下命直後は、半分の工期で完成させる自信は無かった、三ヶ月の工事期間は殆ど不眠不休状態で、自宅には数回戻っただけだった、と語っている。


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