天皇の防空壕(参謀本部付属会議室)

10トン爆弾対策

昭和20年の4月にはドイツが降伏し、枢軸同盟は崩壊した。
日本はただ一国で、連合国を相手に戦っていたのである。
ドイツ降伏の直前には、ヒットラーの山荘「ベルヒテスガーデン」が、10トン爆弾と思われる
大型爆弾で爆撃されたという情報を日本陸軍は入手する。
当時10トン爆弾の実体がどの様な物か詳細は分からなかったが、米軍の1トン爆弾については分かっていた。

昭和17年、フィリピンのマニラ占領時に、米軍の未使用の爆弾を大量に入手し、
各種のテスト結果を得ており、その中に1トン爆弾の情報も含まれていたのである。(注6)
10トン爆弾については、そのデータから推測した。

昭和19年11月から、陸軍参謀本部の中で大本営とその他の政府機関の疎開を計画しているグループが、長野県松代に、巨大地下壕を作り始めており、シナリオでは天皇も松代に疎開ですることになっていた。

松代大本営天皇壕階段

松代大本営天皇壕階段

そんな中、浄法寺大佐は、阿南惟幾陸軍大臣に呼び出され、直接次の事を伝えられた。
「天皇陛下はあくまで東京を離れる気持ちが無く、松代には疎開しない。ヒットラーの山荘空襲で10トン爆弾が使われたのと同様に、天皇を標的にした空襲を想定し、宮城内防空室を強化せよ」
昭和天皇に疎開の意思が無いことは、阿南陸相が天皇から直接言い渡されたことだったという。

この頃陸軍築城本部は解散し、本部員はそれぞれ前線に出向き、現地軍の防禦施設工事を
指導していた。
当時、浄法寺大佐は日本きっての防空技術の権威として、丸の内の国鉄本社ビルの
防空工事や、朝日新聞社、中島飛行機の防空疎開のコンサルタントなどを行っていた。

また陸軍大佐であると同時に、海軍嘱託でもあった。
海軍施設の防空工事についても各種アドバイスを行う立場であり、東京でそれらの対応を
していた。
身分は陸軍工兵学校の研究部長である。

この防空室強化工事の技術検討・施工管理は、浄法寺大佐ともう一人、元築城本部部員で浄法寺大佐と同様に工兵学校の研究部員であった河上房義少佐(後の八戸工業大学学長)があたることになった(16年度工事を浄法寺大佐と共に行った松木中佐は、前年の19年、サイパン島の防禦工事の指導に出、現地で戦死)。
阿南陸相の命令により、浄法寺大佐らはただちに防空室の強化仕様をまとめた。

それは、日本を空襲する米軍基地からの距離を考えた場合、10トン爆弾の大量爆撃の可能性は薄いとし、少数の10トン爆弾よりも、多数の5トン爆弾の方が危険度が大きいと想定できるので、5トン爆弾の2発が同地点で爆発しても絶対安全なこと、10トン爆弾に対してほぼ安全なこととした。(注7)

対策としては、16年に作った防空室の上面に爆弾の起爆層と、鉄筋コンクリートの耐弾層を
設けるものである。
起爆層は爆弾を地中にもぐり込ませず、地表近くで爆発させるもので、
その時の爆発エネルギーを鉄筋コンクリートの耐弾層で受け止めようという考えである。

起爆層は50kgの鉄道レールを隙間無く並べ、レール側面中央に孔を明けて丸型鋼を通し、
各レールを溶接して繋ぎあわせ、隙間にコンクリートを流し込む。
その上に、下のレールとは直角方向に、もう一段レールの層を設け、
さらにその上に厚さ一メートルの強化鉄筋コンクリート層を設けたものである。
起爆層と下の耐弾層とを合わせると、約3.5mの厚さになるという計画だった。

昭和20年に強化された起爆・耐弾層の仕様。

昭和20年に強化された起爆・耐弾層の仕様。

この強化仕様は承認され、阿南陸相の工事命令が出された。
この命令により浄法寺大佐ほか工兵学校研究部員は東部軍司令官の令下に入り、
近衛師団内に宿営地が与えられ、再び現場で工事の指導にあたることになったのである。

この昭和20年に行われた防空室の第二次工事は『一号演習』の秘匿名が付けられ、
5月5日に開始された。
工事には東京付近に駐屯していた近衛師団が動員されている。

当時東京上空には米空軍の爆撃機や偵察機が飛び回っていたので、
工事現場の対空カモフラージュが必要であり、周囲の自然林に溶け込ませた偽装綱を設けて
工事を秘匿した。

この偽装綱によるカモフラージュの完璧を期すため、当時飛行が禁止されていた宮城上空を、
陸軍機が工事以前と、偽装後に飛行し、浄法寺大佐が自身で偽装の完成度をチェックした。
完璧な偽装だったそうである。(偽装責任者は、高屋長武少佐)

日に日に激しさを増す空襲の中で、工期は極力短くしなければならない。
そのためには、コンクリートミキサーを多数必要とする。
当時、東京都建設局と内務省地方建設局は、局内の工事用にコンクリートミキサーを
所持していた。
浄法寺大佐はそれぞれの事務所に出向き、借り出しの交渉を行った。

昭和20年当時、国内では建設資材はほとんど底をついており、
両建設局ともコンクリートミキサーは利用されておらず、
両局合わせて14台のコンクリートミキサーが近衛師団に貸し出された。

工事に必要な建設物資は、近衛師団の森師団長が陣頭指揮し、経理部が調達した。
起爆層の材料である50kgレールは、東京都交通局が在庫していたものを譲り受けて使用した(都電の予備レール)。

昭和20年の6月である、物の無い時代であったが、必要な物は何でも調達できたという。
作業を行う兵員は作業内容に応じて各連隊から選ばれたが、この人選は、師団参謀の
古賀少佐・溝口少佐が行い、適材の発掘をし、作業の効率化が計られた。

作業開始以降この工事は24時間体制で行われている。
コンクリートミキサーは近衛師団の営庭に置いた。
近衛師団は、現在武道館が建てられている北の丸公園内に兵営があった。
営庭は『一号演習』の資材置場にされ、コンクリートミキサーの置かれた作業場の周辺には、
鉄材やセメントが山積みされた。

コンクリートミキサーから防空室の工事現場までは、営庭を出、現在の首都高速道路代官町出口付近を通過し、宮城の乾門を入り、現場に至ると、約300mの距離がある。
この間を、生コンクリートを運ぶため、トロッコの線路が敷かれた。
兵営と現場の間は20m以上の高低差があるが、生コンクリートの入ったトロッコは乾門をくぐり、近衛兵によって押されて運ばれた。

この20年度工事の期間も16年度工事と同様に、代官町通りは閉鎖され作業場にあてられた。

現在の代官町通り。左の白い塀の中が皇居。

現在の代官町通り。左の白い塀の中が皇居。

24時間工事のため照明設備が用意された。
しかし、いくら連続的にコンクリート打設を行いたくても、夜間の空襲時には照明を
消さなければならない。

そこで工事時間を少しでも長く取るために、警戒警報時には工事はそのまま続け、
米軍機が首都圏に進入し「空襲警報」が出された時間だけ照明を消した。

この工事中の消灯は突然行われる。
工事に携わる近衛兵は、空襲警報が出ても防空壕への避難は許されない。
照明が消されると各自自分の持ち場での静止が義務付けられた。
生コンクリートを流し込んでいる兵はその場で、トロッコを押している兵もその場で、
空襲警報が解除されるまで、ただ待ち続けた。
空襲警報が解除され、照明がつくと、ただちに工事が再開されるのである。

7月11日、昭和天皇はこの工事を視察している。
天皇は軍の最高指導者であっても、実兵力による要塞建設工事を見るのは初めてであった。
偽装綱の下、侍従武官を従え工事現場に立った天皇に、浄法寺大佐らの関係者から
工事の説明が行われた。

工事の最終段階で、アプローチ通路付近の手直しが必要になる。
アプローチ通路は地主山の北斜面を掘削し取り付けられているので、
側面の土止めを必要とする。

築城本部が行った要塞建設においては、通路の側面などの土止めには石垣が
多く使われている。
石垣の利用については深い理由は無く、伝統的に踏襲された仕様であった。
この『一号演習』においても通路横の土止めには石垣が使われた。
この工事は、数百年にわたる日本の築城史上、最後の石積み工事と言ってもよいだろう。

この『一号演習』は、延べ人数約10万人の兵力を費やし、昭和20年7月15日に
起爆層・耐弾層の工事が完成、その後土を盛り、植栽し、
宮内省に引き渡されたのは7月30日のことであった。

近衛師団の側から見た乾門

近衛師団の側から見た乾門。この門を工事用のトロッコの線路が通過した。


注6)マニラで入手した米軍の爆弾は日本に持ち込まれ、鈴鹿山地の陸軍用地で、標的とする鉄筋コンクリートの建物を建設し、実際に空中投下によって、その破壊力を測った。

注7)浄法寺氏が93年に藤井に語った時点では、実は「10トン爆弾に対し絶対安全」と自信が持てなかった、10トン爆弾が、会議室の真ん中に落下すると、危険だったかもしれない、とのことである。材料や工期からみて、可能なかぎりの努力をするが、強度不足の可能性がある、しかし工事を急ぐ必要もある。正直に10トン爆弾に対し危険があると、言いにくかったので、話を確率の問題にして、少数の10ト ン爆弾より、多数の5トン爆弾での攻撃に耐えるため、まったく同じ地点に5トン爆弾が2発落下しても安全なものにしたいと提案し了承された。実際の計算では、5トン爆弾が2発同地点に落下した状態と、一発の10トン爆弾とでは、一発の10トン 爆弾がより危険であるが、多くの軍人はより頑丈なものができるとだまされてしまった。浄法寺氏は同地点に2発の5トン爆弾に対しては、自信があったとのことである。また、広島型原爆攻撃を真上から受けたことを想定した計算を戦後行ってみたが、まったく問題は無かった、とのことである。


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