天皇の防空壕(参謀本部付属会議室)

利用

昭和天皇は、空襲警報が発令されている間は、この防空室で過ごしている。
昭和20年5月29日には、宮城西の丸明治宮殿が空襲で焼け落ちたが、御文庫・防空室に被害はなかった。

この防空室が歴史の表舞台に現れるのは、防空室が近衛師団から宮内省に引き渡されて
10日目の、昭和20年8月9日深夜である。
この時この防空室・参謀本部付属会議室で、ポツダム宣言の受諾を決定する御前会議が
開かれた。
この9日の会議の後、14日にもう一度、この決定を徹底する会議がこの会議室で
開かれている。

昭和20年8月の終戦決定の会議室としてこの防空室が選ばれたのは、会議の進行を空襲で中断されてはいけないとの考えと、降伏に反対する軍部内の一部勢力による武力妨害を考えてのことであろう。

防空室

 
この会議に出席した阿南陸軍大臣は会議の後、当時市ヶ谷の陸軍士官学校に設けられた大本営に戻り、陸軍の関係者にポツダム宣言の受諾を伝えるが、この時も地上施設を使わず、本館前庭の地下に掘られた地下壕内の大臣室を使って、会議を行っている。
これも同様の判断によるものであろう。
なお、陸相が大本営地下大臣室を用いたのは、この時一度だけであったという。

そして昭和20年8月15日正午をむかえる。
昭和天皇の声が日本国内に終戦の決定を伝えるまさにその時、
天皇はあらかじめ録音されていた自分のラジオ放送を、この防空室内で聞いていた。

天皇が終戦の瞬間にこの地下施設を利用していたのは、降伏に反対する勢力の、
武力行使警戒のためであった。

日米開戦の年に作られ、そして四年後、昭和20年8月に太平洋戦争終結の舞台となったこの防空室は、これ以後は使用されることも無く、約半世紀以上を経た現在も、皇居の森の下に眠っている。

(学習研究社『歴史群像』9号(1993年10月)に掲載を、加筆訂正したもの)


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