織田信長の軍船(鉄船)復元

織田信長は鉄の巨大軍船(鉄船)を造り、毛利水軍を破砕した。
天正6年(1578)の事件である。
これは、世界史的に見ても、注目されるべき状況である。
織田・毛利間の“地域戦闘”として片付けてよい話ではない。

織田軍に敵対する本願寺軍の拠点である淡輪港

織田軍に敵対する本願寺軍の拠点である淡輪港

海運で成り立つ現在日本。
その社会的・技術的原点が、この事件に含まれている。
日本を知るうえで、より深くその航海実態・戦闘状況・技術背景を解明しなければならない。

この織田信長の軍船(鉄船)については、多くの復元案が世に出ている。
藤井も当時の、船体構造や、艦隊運用、兵器運用、そして、技術面、システム工学面(その多くは江戸期の資料であるが)から検討し、織田信長の軍船(鉄船)の机上復元を試みている。

現在零次案段階であるが、多くのご批判を頂くため、あえて現段階の内容を述べる。

復元零次案・側面図

復元零次案・側面図

船体

『信長公記(尊経閣文庫本)』によると、この軍船(鉄船)の大きさは、全長18間、幅6間で
あったという。

当時建築物を構築する場合の1間は、6尺ではなく、7尺、6尺5寸、6尺3寸など、
現在の1間よりも、5%から10%大きい。
船の構造における1間が何尺かは正確には不明であり、ここでは、6尺を1間として検討する。

『信長公記(尊経閣文庫本)』に現れる18間×6間の比率であるが、現在知られている中で
最も正しく軍船の情報を伝えている高松市の、上原家伝来の軍船模型(以後上原船)と
比較してみよう。

上原船の復元戦闘図

上原船の復元戦闘図

この上原船模型は、1/20と考えられ、実寸法にすると、全長10間、
幅3間3尺(18.4m×6.4m)の大きさである。
全長に対する幅の比率は、「2.87」となる。
織田信長軍船(鉄船)の大きさを記す『信長公記(尊経閣文庫本)』の18間×6間の、
全長に対する幅の比率は「3」であり、両船の比率はほぼひとしい。
船首が箱型の軍船であれば、長さと幅の比率は、「3」が標準なのだろう。

復元案の平面図と側面図

復元案の平面図と側面図 側面図は帆柱を収納した姿を現している。伊勢で造られており、伊勢型の箱状の船首を持つ。全体のプロポーションは、上原船を踏襲したが、船底形状をより大型用に変化させた。外部は鉄板を張り巡らす。

正面図、矢倉後方のそりあがり部分は省略

正面図、矢倉後方のそりあがり部分は省略

背面図、舵は省略

背面図、舵は省略

矢倉

軍船(鉄船)の矢倉とは、船体上の水夫や、戦闘員を囲む木製の防弾構造物を言う。
軍船は戦闘時、帆走は行わず水夫が漕ぐ櫓(ろ)の力で走るので、水夫が安心して櫓を
漕げるように防弾板(垣盾)で囲む必要がある。
このため、軍船のことを「囲い船」と呼ぶこともある。

この織田信長の軍船(鉄船)は、完成時は巨大な船として日本人だけではなく、
来日中のヨーロッパ人も驚かすものであった。

しかし、この18間の長さの軍船(鉄船)は、完成時には巨大であったが、
後に秀吉や家康が造る軍船に比べると、中型艦でしかない。
江戸期の高松藩の御座船である「飛龍丸」の全長が17間3尺であり、
織田信長の軍船(鉄船)とあまり変わらない。
徳川家の旗艦「安宅丸」は、全長30間の巨大木造艦であり、矢倉部分は二層で、
三重甲板構造だったと考えられている。

世に出ている織田信長の軍船(鉄船)の復元案には、安宅丸と同様に二層矢倉の案もあるが、18間×6間の船体では、二層矢倉は不安定となるので、高松藩の飛龍丸と同様に、
復元零次案では単層矢倉二重甲板とした。

断面図、矢倉内部は、水夫と大砲が混在する空間である。

断面図、矢倉内部は、水夫と大砲が混在する空間である。

大砲

天正6年11月6日「大船に大鉄砲余多(あまた)これあり」「大将軍の舟と覚しきを、大鉄砲を以って打ち崩し」と『信長公記』は、織田水軍が勝利した大坂木津川口の戦いを記している。

この「大鉄砲」の実態が分らなければ、「大鉄砲」を搭載し、運用した軍船(鉄船)機能が
復元できない。
江戸期に「大鉄砲」と言うと、大型の火縄銃、俗に「抱え筒」と呼ばれるものを指すことが多い。

しかし『信長公記』の「大鉄砲」とは、“大砲”と考えなければならない。
『信長公記(尊経閣文庫本)』には、各艦には大砲が三門づつ搭載されている、と記されている。
大砲を用いて戦闘を行っていたのである。

日本には、船戦で大砲を運用する伝統がない。
この点は、南蛮船の艦砲である「フランキ」の運用を参考にしたと考えられる。
フランキとは、艦載用の青銅砲で、大友宗麟が使用したと伝わる「国崩し」(長さ2.8m)が
それにあたる。

軍船(鉄船)のフランキと、砲架案。「国崩し」より少し小型の砲

軍船(鉄船)のフランキと、砲架案。「国崩し」より少し小型の砲

フランキは当時、輸入品、国産品が普及し始めていた。
織田信長は宣教師から多くの軍事情報を得ており、フランキの情報や実物も入手していたと
考えられる。

小型のフランキは、船べりに穴を開け、フランキの雲台を差し込んで用いるが、大型のものは、
砲架を必要とする。

砲撃運用

砲撃運用 下甲板では、二段構造の垣盾を上げ、砲撃を行う。この砲撃時点、この位置を持ち場にする水夫は、櫓を漕げないので退避する。上甲板(矢倉板上)では、鉄砲・焙烙(陶器製火炎瓶)を使う戦闘員が接近戦に備える。表面の鉄板は釘で木部に固定されている。

屋形

遣唐使船以来、大型船の甲板上には、貴人が滞在するため屋形が造られる。

遣唐使船の屋形

遣唐使船の屋形

戦闘艦は、戦闘中は帆柱を船上に倒して収納する。
この時、屋形の中央を帆柱が貫通する構造を持っていなければならない。

復元案では、切妻の屋根を持ち、展望機能と、大型船に乗る上級者の格式を表現したものを
想定し、また防弾構造を取り入れ、射撃拠点としても利用できるものとした。

屋形

屋形。鉄張りの突き上げ戸で防弾空間とする。

3D・CG化と実物大復元

まだ一部の検討が残されているが、近々現段階の復元資料を用いた3D・CG化を行う
予定である。
今後多くの情報を加えて、より完成度の高い織田信長軍船(鉄船)復元を進めたい。

徳川家の旗艦である安宅丸に比べると、信長の軍船(鉄船)は中型艦、と前記した。
この事実は、織田信長の軍船(鉄船)が、つまらない物なのではなく、当時、日本の造船技術が、驚くべきスピードで進化したしたことの証明なのである。
その進化の起爆剤が、信長の軍船(鉄船)なのである。

戦国末期に日本は、欧州世界と繋がった。
戦国末期に日本は、海によって地球規模の付き合いが開始されたのである。

可能であれば、織田信長の軍船(鉄船)を実物大で復元し、地球規模の国際化が始まった
段階の、日本の海洋技術を理解し、実証科学によって戦国史の解明を期待したい。
そこで生まれる新たな疑問は、日本文化の幅をより広げることにも寄与するだろう。

©Hisao Fujii