戦国茶道

秋から冬にかけては、各地で発掘調査の公開説明会が行われる。
地方自治体が年間予算で初夏に開始した発掘調査が、ある程度進行した状態になるから
である。
藤井が発掘指導委員を行っている茨城県の真壁城でも、発掘現地説明会が毎年行われている。

04年度の発掘ではかなりの成果が出た。
発掘した場所は、「中城」と呼ばれる部分であり、近世城郭で言えば“三の丸”にあたる。

ここで、茶室・池跡が発見された。
出土品としては、茶道で用いる「天目茶碗」の断片が、数点分出ている。
その他「手炙り火鉢」も見られる。
発掘された地層は、15世紀末期段階の部分である。

現地説明会風景

現地説明会風景。 雨の中100名以上の見学者が集まった。 写真は発見された2間四方の茶室跡の説明。 手前に池跡も発見されている。 庭跡と考えられる部分に「飛び石」も見られる。 遠方は加波山。

真壁城平面図

真壁城平面図(関東を代表する平城である)

真壁氏は平安時代から続く名族であるが、15世紀末の真壁城は、水戸の佐竹氏の家臣としての真壁氏の居城だった。
このころの佐竹氏は、秀吉の命令で、たびたび伏見城や、肥前名護屋城に出向いている。

秀吉は、伏見城や、名護屋城に各地の戦国大名を招き茶会を催す。
秀吉のサロンは「茶の湯」で成り立ち“ほうれんそう”(報告・連絡・相談)の多くは茶室がその場であったようだ。
「茶の湯」は一つのメディアなのである。

今回の真壁城発掘での成果は、この「茶の湯」をメディアとした社会構造が、
秀吉のサロンのみではなく、各地の大名家内にも浸透していた事を明らかにした点である。
真壁城内の茶室は、大名佐竹氏が利用するものではない。
佐竹家家臣の真壁氏の、それも「中城(三の丸)」に設営されていたものである。

かつて本丸の発掘では多くの高級茶器が発見されており、決して「中城」が真壁城の
茶道センターであったのではない。
今回の発見は、「中城」に住むにふさわしい人物の茶室なのであろう。

この時代の侍にとって、“武器”と並んで重要だったのは“茶器”だったのではないだろうか。
高級茶器を用いた「茶の湯」を軸にしなければ、日々の社会活動がままならない状況にまで
至っていたようだ。

茶室付近から出土した天目茶碗や茶壷、香炉の断片

茶室付近から出土した天目茶碗や茶壷、香炉の断片。 これらは、瀬戸・美濃で生産されたもの。

型押し模様で飾られた「手炙り火鉢」

型押し模様で飾られた「手炙り火鉢」。 江戸以降の火鉢は丸型であるが、この時代の火鉢は角型である。 「囲炉裏」のデザインイメージの延長にあるのかもしれない。 この火鉢は地元の土で焼かれたもの。

戦国時代は、末期にいくに従い戦いの規模は拡大し、戦域の社会疲弊規模も大きくなる。
庶民のみならず、大名、上級武士達も興亡の縁に立たされた状況下であるにもかかわらず、
彼らは高級茶器を手に入れるのに躍起である。

そして関ケ原合戦(西暦1600年)の後。
西軍に加担した佐竹氏は秋田に左遷される。
この時、佐竹家臣の真壁氏は、当主以下一部のみ秋田に移動するが、多くの侍は真壁周辺に
住み帰農した。

発掘では、17世紀はじめ(関ヶ原合戦直後)、茶室その他の建物が撤去され、
池が埋められた状況も確認できた。
関ヶ原合戦は、真壁地域の“茶の湯文化”を一気に消し去ったようだ。

真壁城の「中城」南東角の“櫓台”

真壁城の「中城」南東角の“櫓台”。 廃城以降土塁は崩されて畑や、水田にされていた。 近年土塁や櫓台の整備が進んでいる。 (設計・造成指導/藤井)

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