幻の土塀を見た

「屏風折れ土塀」と称される土塀がかつてあった。現存していない。
「屏風折れ土塀」は、江戸時代に描かれた古図上でのみで確認されている。
城壁の土塀の狭間は、堀内や、堀外を観察、射撃できるが、土塀の直下は観察しにくい。

土塀の下が石垣であれば、土塀に「石落し」を設けて俯瞰できるが、
土塁の場合は、斜面は緩やかなので、有効な「石落し」が設置できない。
そこで工夫されたのが、土塀を屏風折れに突出させ、土塁の斜面を斜めに観察し、
射撃する方法である、と考えられている。

この考えは、実物が無いので、古図を見て推測している状態であり、
城郭研究者にとって「屏風折れ土塀」は“幻の土塀”なのである。
古図に描かれた「屏風折れ土塀」で有名なものは、丹波の篠山城二の丸(幕末の三の丸)土塁上のものである。

篠山城古図の部分スケッチ

篠山城古図の部分スケッチ 土塁上の土塀が、外に折れ出ている。

三河の西尾城の古図では、本丸から三の丸の全ての土塁上に「屏風折れ土塀」の
記入がある。(注1)

津山城外曲輪の土塁上にも見られるが、津山城の場合は外に出っ張らず、
内にへこんだ屏風折れになっている。
土塁の斜面を斜めから観察するのであれば、出っ張らず、凹んでいても同じ効果が得られると
考えられる。

津山城と同様な内折れのものとしては、『大坂冬の陣図屏風』に、
四角く凹んで描かれたものがある。
その他、徳島城の古図にも見られる。(注2)

この「屏風折れ土塀」が、いつから普及したかは不明であるが、土塁が直線に造られて始めて効力を発揮するところから、直線の土塁が多く使われる慶長期あたりからであろうと藤井は考えている。

篠山城南馬出の土塁

篠山城南馬出の土塁 篠山城のほとんどの土塁は現存していないが、 唯一南馬出の土塁が現存している。典型的な直線土塁である。 天保八年の古図にのみ、この南馬出の土塁上に 「屏風折れ土塀」が描かれているが、 礎石や、根固め石が見られないので、発掘以外での確認はできない。

前置きが長くなったが、古図で確認されているのは、三河から中国・四国までで、
東国の城の古図には現れない。

しかし、慶長の築城であれば、日本中に技術が伝播したはずである。

東北に幻の土塀が見えた

山形城二の丸塁壁

山形城二の丸塁壁。虎口付近のみ石垣で、他は土塁となる

最近、地元の方々と山形城を歩く機会があった(04年冬)。

そこで、山形城の土塁で「屏風折れ土塀」を探すことにした。
山形城には土塀は現存せず、数枚残されている古図にも「屏風折れ土塀」の画は無い。

しかし、山形城の築城テクニックには、何か引っかかるものを感じていたので観察した。
山形城の本丸部分は、明治期に、旧陸軍が駐屯地とするため、平地化している。

だが、本丸を囲む二の丸土塁は残っている。
そしてその土塁上には土塀の根固め石が50%ほど確認できるのである。

土塁縁に残る土塀の根固め石列

土塁縁に残る土塀の根固め石列

根固め石を追って、土塁上を歩いた。
土塁の縁にある根固め石は、土塁の崩落で紛失したり、位置がずれ蛇行もする。

しばらく上歩いたところで、一瞬蛇行する石列と思った、しかし曲線ではない。
直線的に斜め外に張り出している。
根固め石が、屏風折れしているのだ。
と言うことは、ここに「屏風折れ土塀」があったことになる。

しかし、もう一度見直すと、誰にでも発見できるところにある。
藤井は以前にも、山形城の二の丸土塁上を全て歩いたことがある。
なぜその時に気がつかなかったか、狐につままれたような不思議な気分になった。

同行していただいた方々も、この屏風折れの石列を、今まで気がつかなかったとの事。

いずれにしても今回発見できた。
幻の「屏風折れ土塀」の平面が見えた訳だ。
「屏風折れ土塀」の規模と形状に、初めて意識して触れた瞬間だった。
それは数箇所に残されている。

屏風折れする土塀の根固め石列

屏風折れする土塀の根固め石列

これまで古図でしか研究できなかった
「屏風折れ土塀」の実態に近づけたのである。
この発見をベースに、近世城郭の土塁防衛について研究を一歩進められる。

山形城屏風折れ土塀の復元

山形城屏風折れ土塀の復元 厚さが50cmほどの練塀であり、出角は石列から考えると、曲面仕上げになっていたようである。土塀の直線部分の外側には犬走りがあり、 屏風折れ部分の、設置位置の安定を考慮している。

山形城は最上義光の城として有名だが、現在の山形城は、元和八年(1622)に
ここに入った鳥居忠政によって完成されたものである。
この鳥居氏時代の姿は、幕府に提出した正保絵図に残されている。
正保絵図の二の丸には、全周の土塀がある(屏風折れ部分は省略されている)。

しかし、鳥居氏時代から100年以上たった明和時代の古図では、
二の丸の土塀は東半分しか描かれていない。
現在の二の丸土塀の根固め石を見ると、東側半分の根固め石は大きく、
西側半分のものは石が小さい。
これは、東側半分のみの改修工事を行った時点で、根固め石も入れ替えられたためだろう。

発見の屏風折れ石列は、東側の改修された部分にある。
「屏風折れ土塀」は、改修がなされていたのである。

このように「屏風折れ土塀」が、メンテナンスされていた事実は、東北地方でも、
「屏風折れ土塀」が定着していたことを示している。

関東地方から東北地方には、土塁を多用した近世城郭は多い。
今後関東・東北地方の他の城で、うっかり見落としていた、「屏風折れ土塀」の痕跡に
また出くわすのだろうと思っている。

山形城では、一度地中に埋まった本丸虎口の復元工事が進んでいる

山形城では、一度地中に埋まった本丸虎口の復元工事が進んでいる。 現在は確認の方法は無いが、本丸の土塁上にも、 「屏風折れ土塀」はあったのだろう。


注1)
西尾城の「屏風折れ土塀」は、土塁自体も土塀と並行的に突出させており、直線的な土塁とは言い切れないか。

注2)
徳島城の「屏風折れ土塀」は、石垣上に造られたものであり、土塀を突出さ せ「石落し」の機能もあったのではないかと、推測されている。

©Hisao Fujii