景勝の仕事

多くの史跡を歩くと、まさかこんなものが残っているとは思わないものに出くわす。
そんな話である。

関が原合戦は当初、会津の上杉景勝の討伐を予定したものだった。
上杉家に伝わるいくつもの物語や史料に、関東と奥州との境の白河で決戦を予定したとある。

これをたよりに、私は白河へ出かけた。
どんな地形で戦おうとしたのか確かめたかったのである。

現地は、雪が消え残り、乾いた冷たい空気に支配されている。
木の芽も、草の芽も無い。
そこを、朝から夕方まで一人で歩いた。

白河近辺は戦国中期以降、伊達氏や佐竹氏が行動した場所であり、多くの戦場遺跡がある。
合戦に備える陣地工事は、川や、山など自然地形を利用して造られることが多い。
地形的に頼りになると思われる場所を歩く。
丘の上などで小規模で、断片的な軍事遺構を見る。

この程度かと思いつつ夕焼けの中、自然障害が希薄な平地の中に、なんと予測と大きく食い違うものを見てしまった。
直線的な空堀と土塁の城壁である。

この城壁線が上杉軍の展開位置とすると、対戦相手の徳川軍が展開すると想定できる丘から、200mほどしか離れていない平地である。
その丘と平行に、空堀と土塁が造られているのである。
そしてこの城壁は丘の上から、しっかり見下ろされている。
農業地帯の戦場遺跡は、その後、畑や、水田にされ形跡を残さないものが多い。

しかし、こんな幼児が遊びまわるような平地に戦場遺跡が残されている。
予想外の収穫である。

鳥肌の立つ思いでその規模を確認しようと土塁の上を歩いた。
塁壁の最後は道路で切断され、その先は破壊されていた。
残存部の長さは400mほどもある。
おそらくは、数kmあったものの一部なのだろう。
これは一つの地域を守る「城」ではなく、領域全体を守る一種の「長城」である。

上杉家に伝わった話は、事実だったようだ。
頭の中で、上杉軍と徳川軍の決戦をシミュレーションしつつ、落ち葉の下の土塁と堀を感じながら感触を味わっていた。

そして、気を良くした私は、日が暮れかかった土塁の上からケイタイで友人に、
この塁壁の発見を伝えていた。
(福島県白河市石阿弥陀地区)

追分の明神(境の明神)

追分の明神(境の明神) 関東と奥州の境にある「追分の明神」この神社の北が、奥州となる。 国境の峠の分水嶺に鎮座している。 関が原時点には、この神社の北が上杉領であったが、 軍事的迎撃地として景勝が選んだのは、この北約3kmの平地であった。

長城(直線塁壁)遺構

長城(直線塁壁)遺構 白河市石阿弥陀に残る塁壁。堀の中から土塁を見たもの。 右側から徳川軍が侵攻することを想定している。 平地に奇跡的に残った遺構である。

土塁上から南方を見る

土塁上から南方を見る 左が、徳川軍が侵攻してくると予測される南方である。 畑と水田を越えた位置に丘があり。この土塁は見下ろされている。

◎石阿弥陀地区の地図

石阿弥陀地区の地図

©Hisao Fujii