築城流儀

茨城県は、かつての“常陸の国”である。
常陸国の国府は石岡にあった。
この石岡のすぐ西方の盆地が八郷町になる。

八郷町は周囲を、筑波山、足尾山、加波山、難台山に囲まれた盆地である。
周囲の山並みが美しく、自然と農地のバランスがすばらしい。
この景観と東京から近いこともあって、NHKの大河ドラマのロケ地として、ドラマの時代背景が違っても多く利用されている。

八郷盆地

八郷盆地

八郷町は、東西、南北それぞれ15kmほどの広さであり、その中に27箇所の、
城館跡及び城館跡伝承地がある。
さすがに時代劇のロケ地として使われる場所である。
戦国期以降、手が加えられること無く城跡が現在まで残されているものが多いことに
驚かされる。
その遺構の多くを、フィールドワークしてみた。

八郷の城跡には遺構が良く残る(権現山城の土塁)

八郷の城跡には遺構が良く残る(権現山城の土塁)

遺構の残存状況が良いと、そこから築城者の製作意図が見えてくる。
地形の捉え方、守り方、撤退のありかたが分かる。

町内の幾つかの城跡をフィールドワークし、八郷町の築城流儀は、どうも2種類に
分けられそうだ、と考えた。
このエリアには、2種類の築城流儀が、混在しているようなのである。

二つの流儀を、藤井が勝手に「A」と「B」とした。
まず「A」流儀の城から見てゆこう。

吉生(よしう)城(A流儀の城)

吉生城平面図

吉生城平面図

吉生城は周囲に空堀が巡り、曲輪内は I 、 II の二段に造成されている。
この I と II との間の段差は、塁壁的なものではなく、曲輪内居住地や倉庫として利用するため平地化する時点で生じたもので、防禦空間としては、 I 、 II 合わせて一つの空間と考えられる。

I の北東方向が台地続きとなり、現在吉生小学校のグランド III である。
この台地続きの堀は他の部分の堀よりも幅が広く造られ、その堀の曲輪側には土塁も盛られ
台地からの攻撃を警戒する構造となっている。

台地続きを切断する空堀

台地続きを切断する空堀。左が城内の土塁。

この城は目立つ虎口構えを持たず、全周に外土塁を伴う堀を巡らせている。
そして、虎口をことさら目立たせ、複雑化する構造が見られず、虎口を目立たない位置に
選定する事に気を使っている。

吉生城には、別の特徴もある。
曲輪内の土塁設置場所が、限られている点である。

曲輪内の土塁は台地続きの北東辺にのみ見られる。
他の塁壁上には土塁は無い。

多くの居館として利用されたと考えられる遺構には、軍事的脅威が薄い崖に面した縁にも土塁を設置することが多いが、吉生城は軍事的な必要部分にのみ土塁を盛り、塁壁の高さが充分と感じられる位置には土塁は無い。

このことから、吉生城は軍事的な要求が強く反映され、造られた城と言えるだろう。
吉生城の整備された時期は、戦国末期に近い時期と考えることができる。

高友城(高友古塁)(A流儀の城)

高友城平面図・城内に前方後方墳を取り込んでいる

高友城平面図・城内に前方後方墳を取り込んでいる

図で分かるとおり、丘陵の南斜面に接する辺も含め、全周囲に堀をめぐらせており、
その全てが残っている。

図のIが城内そのものである。
I の虎口は、現在南から城内に入る道が付けられているが、他には虎口構えが
見られないことから、城の存続時期においても、現在の道路が虎口だったのであろう。

城域の東辺にそって古墳がある。
古墳は台地続きを観察する櫓台の機能があるが、前方後方墳の平面形態を良く残し、
古墳を、城の土塁として加工していない。
むしろ古墳に敬意を払った扱いを観察できる。
この古墳は、第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の墳墓と伝承され、
城跡の南東に鎮座する佐志能神社の御神体的存在である。

堀幅は、南の斜面に面した虎口付近が広く、この南辺の堀に比べると、
軍事的な弱点と考えられる台地続き II の地域と切断する堀が、小規模である。

この遺構の状況からこの城は、純軍事的な目的で造られたのではなく、
有力者の居館と考えられる。

南辺の空堀

南辺の空堀

北辺の空堀と土塁、右遠方が墳丘

北辺の空堀と土塁、右遠方が墳丘


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©Hisao Fujii