軍馬

軍馬(初めて発見された戦国の馬)
この馬はエレベータだった

馬は野を走るもので、山には登らないと確信している人も多い。
戦国の山国日本では、山を登らない馬は、馬とは認められなかっただろう。

馬は、戦国社会には欠かせないアイティムであるが、その実態はほとんど不明だった。
だから山に登らないという誤解も生じた。

これは、馬肉が食用にされ、骨格がまともに解明できる形で発見されなかったからである。
実際に在来馬の進化を解明しようにも、鎌倉末期から、幕末までの間は、
馬体が不明だったのである。
当然骨格から、馬体の平均的数値を上げることは出来なかった。

ところが、10数年前に甲府の躑躅ヶ崎館から、ほぼ一頭分の馬骨が発見されたのである。
頭を北にして顔を西向きにした丁寧な埋葬だった。
武田一族か、家中の要人の乗馬であろう。
埋葬形式から、第一級の軍馬だったと推察できる。

この出土馬は、武田軍の軍馬について多くを語ってくれた。

出土馬をもとにした復元画

出土馬をもとにした復元画、特に前足の筋肉が発達していた。

体高(背中の最も高い位置までの高さ)は、1.2mである。
当時関西地方の馬は最低が1.2mの体高で、多くはそれ以上と考えられているので、
出土馬は小型の部類だろう。

そして現在の馬からみると、肩甲骨が異常なほど発達しており、前足の筋肉が
強力だったようだ。
前足の発達は斜面の上り下りに欠かせない条件である。
山国である甲斐の馬は、常に山坂を闊歩していたのだ。
体型的には、明治期まで物資の運搬で活躍した「木曾馬」とほぼ一致している。

物資を運ぶ駄馬は、足が細長い競走馬タイプではなく、骨太で足の短い体型が適している。
一体の出土馬のみで全てを語れないが、武田軍の軍馬は疾走する馬ではなく、
重量物を運搬する駄馬を基本としていたと想像できる。

当時多くあった山城には、このような馬で登っていたのだろう。
山城は人だけの空間ではなく、馬も共存していたのである。

戦略単位の軍団が軍事行動を起こすには、多量の物資を並送しなければならない。
軍事行動を支えるには、物資の輸送システム整備は必須である。
武田軍の制圧地域で軍事物資の輸送に水運を使えるのは、駿河の一部でしかない。
武田軍が近隣の諸国へ兵を動かすには、大量の物資を、山岳地を越えて運ばなければ
ならないのである。

似た例であるが、現在(91年現在)でもスイス陸軍では、ラバを装備し山岳戦闘時の物資搬送を想定している。

豊臣秀吉の軍勢が、四国に攻め込んだ時点の言い伝えである。
高松近辺で前線の小部隊を、土佐から四国山地を越えて進出していた長宗我部軍が攻撃した。
馬上の上方勢は、水路を越えて逃げたが、追う長宗我部軍の馬はみな小型馬だったため、
水路を越えられず追撃できなかった、というものである。

四国の山岳地帯は急峻である。
この地を制圧した長宗我部軍は、武田軍と同様に山岳移動に適した小型馬を
使っていたのだろう。

出土馬の大きさ

出土馬の大きさ

武田軍は、物資の輸送手段に適した馬と、その馬の育成地を領域全体に
広く持っていたからこそ、近隣諸国や中央政権に対し軍事的影響力が大きかったのである。

武田軍の総合戦力は、騎馬突撃がキーなのではなく、日本の中央山岳地帯を、
戦略単位の軍事力が自由に移動できるシステムを、馬によって作ったことをベースに
しているのである。

この、山岳地での軍事活動を支えた小型馬がいなければ、武田家は単なる山国の名門領主に
すぎなかっただろう。

(資料提供/甲府市教育委員会)

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