化けた名島門

戦国と近世の城

戦国期の城と、近世の城の最も違う点は、具体的戦闘時期のイメージがなされているか否か、
であろう。

戦国期の城は、漠然とした“敵”に備えるのではなく、具体的な敵が存在し、
侵攻されたならいかに戦うか。
城が使用されるのは今日ではなくとも、遠くない未来に使用される状況で造られる。

城の攻防戦闘(横山城)

城の攻防戦闘(横山城)

このため戦国期の城は、具体的な敵に対し、短期間で造り上げなければならず、
またその城が半永久的に存在しなければならない理由もない。
当然、臨時的要素が多いものになる。

では、戦国期から、近世への変換点はどこなのか?・・
この回答は出しにくい。

例えば、秀吉が安定的に畿内を押さえ、大坂城を造っていた時点、
遠方に敵性勢力は存在しても、直接大坂城に攻め寄せる“敵”は特定できない。

しかし同じ時期に徳川家康と、小田原の北条氏の間では緊張が高まり、おのおのが支城を造り、本城を強化している。
大坂夏の陣が終わって以降、徳川家康の絶対的な軍事力下に置かれた日本は、
安定した近世となった。
このため、大坂夏の陣以降に造られる城のほとんどが、“漠然とした敵”に備える城に
なったのである。

こう見てくると、秀吉時代は、戦国期と近世の中間的な時代となる。
現在ほとんど存在しない戦国期の城郭建築を考えるにあたり、戦国期城郭建築を示唆してくれる秀吉時代の城郭建築の調査は重要である。

城下町の櫓門

九州の福岡城公園内に「名島門」という櫓門が残っている。
福岡城の城門ではない。

秀吉は、天正15年(1587)に小早川隆景に、博多湾の名島と呼ばれた半島に
名島城を造らせた。
名島門は、かつて名島城の脇門だったと伝わる。

小早川隆景の名島城跡

小早川隆景の名島城跡。発掘では石垣の根石が発見されている

慶長期に入り、黒田長政が名島城を廃し、福岡城を新たに造る段階で、
名島城の建物をリサイクルする。
この時点で名島門は、家臣の林掃部(はやし かもん)に与えられ、林邸の門になった。
名島城の遺構であれば、正しく秀吉時代の櫓門となる。
名島門は、小型の櫓門ではあるが、小型ゆえに戦国期の臭いが漂う気がする門である。

名島門(正面)

名島門(正面)。小柄であるが、どうどうたる櫓門である

二階部分の破風

二階部分の破風。反りと、懸魚(げぎょ)に秀吉時代の作風が伝わる

この櫓門が福岡城に利用されなかったのは、小柄ゆえ、新たに造る福岡城には不似合い、
と評価されたからだろうか。

しかし、黒田家の城下町では、家臣屋敷に、城に使われるような櫓門が建っていたのである。
かつて織田信長が安土城を造営中に、家臣の屋敷で櫓門を建てていたのを見て、
その櫓門を召し上げ、安土城の城門にしたことがある。

一方、福岡城では、黒田長政が、家臣に櫓門をプレゼントしているのか。
このあたりが、黒田家の家風なのだろうか。
また、櫓門を屋敷の門とした林掃部とは、どんな人物だったのだろうか。

机上で気がつくこと

藤井は名島門を何度か見、柱を触りながら戦国時代を感じていた。
そして、例によって実測した。

名島門正面図

名島門正面図

机上で図にしていると、細かなことに気付く。

まず、二階の櫓部分である。
二階は、大人が立って歩くと垂木に頭をぶつけるほど低い。
この高さでは弓は引けない。
櫓部分で使える武器は鉄砲だけであるが、この時代、弓の使えない櫓は欠陥だろう。
外観は櫓門であるが“見掛け倒し”、と言った感じである。

次に、柱の扱いが珍しい。
隅柱四本が全て地上から櫓の屋根の下までの“通し柱”である。
他の現存している櫓門で、櫓部分まで通し柱が利用されているものは無い。

冠木(かぶき)も変わっている。
冠木とは、門柱の上部に水平に使われる材のことである。
冠木の断面は、長方形となる。
名島門の冠木は、長方形の断面が横になるように使われている。
多くの櫓門では、冠木は二階の櫓部分を支えるため、より重量に耐えるよう、縦長の断面で
使用する。

名島門の場合は、通し柱で櫓部分を支えているので、冠木を、二階の櫓部分を支える構造とする必要が無かったためかもしれない。
より細かな部分を観察すると、さらに変わった部分が見えてきた。
門柱の並びに脇柱が立つ。
平面図を正確に描くと、隅の通し柱間を結んだ線と、脇柱の中心軸線が一致しない。
数センチだが、脇柱が内側に入っている。

名島門平面図

名島門平面図(下が前方)


一般に脇柱と背後の控え柱とは貫が貫通し、櫓を支える構造体となるが、
名島門では、通し柱間に貫は通るが、脇柱を構造体にしっかりと組み込めない。
「石落し」部分も腑に落ちない。
櫓門の石落しは、二階部分が門柱の前方にせり出し、扉の直前位置の敵を伏射できる
構造である。

門扉前の石落の突出空間

門扉前の石落の突出空間

名島門はこの石落し部分が1mほどもあり、空間が広い。
門柱の前方に二階部分をせりだしすぎると重心が前方に寄り、櫓門全体が不安定になる。
名島門の場合は、櫓の重量を通し柱で支えているので不安定さはないが、
このような構造の櫓門は他には無い。

また、二階の土台(桁)を支える腕木の下に、肘木が付いている。
櫓門の腕木に肘木が付く例は、他には無い。
机上で図を観察すると、例外だらけの櫓門である。
これが、秀吉時代の城郭建築なのだろうか。
秀吉時代は中世から近世への過渡期であり、まだ様式が定まらない時代と考えることもできる。

しかし、この構造は、材料の扱いに無駄があり、合理性が感じられない。
この構造を納得できる条件を考えてみた。

櫓門に化けた

藤井は、頭の中で、他に例の無い四隅の“通し柱”を取り去る想像をした。
当然屋根は落ちる。
門柱の上の冠木まで屋根は落ちる。

屋根が冠木まで落ちたその姿は「薬医門」ではないか。
薬医門であれば、冠木は横長に使われて当然である。
薬医門であれは、腕木は「雄梁」であり、肘木は「雌梁」である。
(「雄梁」「雌梁」は、門建築用語・黒門写真解説参照)

そもそも名島門は、櫓門ではなく、薬医門だったと理解できた。

名島門の屋根構造と、門柱・腕木を再構築すると、薬医門が出来る。
名島門は本来薬医門だった。柱の太さから城門ではなく、
屋敷の門だったと考えられる。


名島門は薬医門だったのであり、その柱の太さから城郭建築ではなかったと考えてよいだろう。
薬医門を櫓門に化けさせたのは、林掃部ではなかろうか。
小早川隆景が築城時に、いずれかの薬医門を城門として改築したにしては姑息にすぎる。
福岡築城に不要な薬医門ならば、黒田長政が、家臣の林掃部に与えたのも理解できる。

だが、オリジナルの姿を復元すると格式があり、名島城内での、重要な施設に使われた門だったと考えられるのである。
黒田長政は、林掃部にその“格式”を与えたようだ。
しかし林掃部は、その格式を台無しにし、見掛け倒しの櫓門に仕立て直した。

薬医門を櫓門に仕立てた林掃部は単なる無骨ものなのか。
または黒田長政へのメッセージをこめた行動だったのか。
藤井は、この林掃部という人物に興味をそそられる。

中世末期の薬医門の例。秋月城黒門

中世末期の薬医門の例。秋月城黒門

黒門の部分拡大
秋月城の黒門は、現存の薬医門としては古い段階のもの。
冠木は横長に使用される。
冠木を、雄梁と雌梁が挟み込んでいる。
木割りが太く城門らしさが出ている。

©Hisao Fujii