家光の遥拝所

上野寛永寺の復元を考えてみた。
江戸時代には、現在の上野公園と、芸大、動物園、博物館、美術館、上野駅の全てが、寛永寺の寺域であった。
本堂は、現在の国立博物館正面の噴水池あたりになる。

不忍池から見た忍ヶ丘

不忍池から見た忍ヶ丘。かつてこの岡に、寛永寺の大伽藍が建っていた。 右の屋根だけ見える堂の場所が弁天島

江戸時代徳川家の祈願寺は、芝の増上寺と、上野の寛永寺とされている。
寛永寺は江戸城の北東方向にあり、鬼門の押さえである。
増上寺は裏鬼門の押さえとされ、将軍が死ぬと遺体はこのどちらかの寺に埋葬されていた。

しかしこの二寺を比べると、対等ではなく、寛永寺がより強大な力を持っていたのである。

国家規模の儀式空間

寺は言うまでもなく宗教施設である。
宗教施設とは単に存在し、参詣人がお参りできれば良いのではなく、学問を行う機能を持ち、
そして“宗教儀式”を行う場として存在している。
特に、山門から本堂へと続く空間は、儀式空間である。
宗教儀式の演出空間として存在させられているのである。
と言うことは、伽藍の規模はそのままそこで行われる儀式の規模を表していると言える。

上野寛永寺を机上で復元すると、そこには巨大な儀式空間がしつらえてあったことが
分かるのである。

増上寺伽藍の復元俯瞰図(幕末期)

増上寺伽藍の復元俯瞰図(幕末期) 忍ヶ丘の上に、本堂(根本中堂)、回廊、山門(文殊楼)大仏殿、 東照宮などが建ち、周囲には、多くの塔頭が林立していた。

寛永寺の本堂(根本中堂)は、間口45.5m、奥行きが42mあり、奈良の大仏殿(間口57m)
よりは小さいが、巨大な本堂であった。
山門は「文殊楼」とも呼ばれ、間口が7間の規模である。

寺院建築の1間とは、民家を計る1間とは違い1.8mではない。
7間とは、柱間が7つあることを指している。

寛永寺の山門の間口はおよそ36mである。
江戸の町で巨大な山門というと、増上寺の三門(三解脱門)がある。
これは大規模な門であるが、間口は5間である。

浅草寺の山門(宝蔵門)

浅草寺の山門(宝蔵門) 戦後コンクリートで復元されたものであるが、ほぼ旧態を再現している。 この門も間口は5間である。 寛永寺が建立される以前は、江戸城の鬼門の押さえは、この浅草寺の役目であった

寛永寺の山門のように、間口が7間の山門は現在日本に残されていない。
寺ではないが、かつて平城京、平安京の羅城門(羅生門)は、間口が7間であった。

日本国の最高儀礼の場は、7間間口の門で演出されていたのである。
寺の山門の間口は、実は寺の本堂の規模と同期している。

5間の山門であれば、その本堂は7間間口となる。
7間の山門であれば、本堂の間口は9間となり、そこで行われる儀式の規模が決まるのである。

平城京の羅城門の間口は7間と記したが、本堂にあたる大極殿の間口は9間でできていた。
ちなみに、北京の天安門の木造部分間口は9間、本堂にあたる大和殿の間口が11間である。

この様に見ると上野寛永寺は、国家最大の宗教儀式が行える場なのである。
この寛永寺の規模を超える伽藍は、推古朝の東大寺と、秀吉が造った方広寺大仏の伽藍だけではないだろうか。

いずれもその時代の国家規模の最大儀式空間だったと言える。(注1)
この寛永寺建立は、天海僧正の発案とされている。

上野東照宮

上野東照宮。ここだけが江戸期から変わらない姿である

主軸は何処へ

この国家的存在であった寛永寺ではあるが、東大寺のように、真南を向いていない。
南南西を向いている。
寛永寺の南南西には不忍池がある。
天海僧正は不忍池を琵琶湖に見立てた。
琵琶湖の竹生島に見立て、新たに弁天島を造ったりもしている。(注2)

しかし、伽藍が南南西を向いているのは、単に不忍池に向く必要があったからではない。
藤井は復元俯瞰図を描いていて、図中にその収束する焦点を求めて気がついたことがある。

本堂の前に立ち後を振り向くと、当然その南南西の軸線上に山門が見えることになる。
そして、その山門の柱間から、江戸城の天守が見えていたことに気がついたのである。(注3)
寛永寺は、江戸城天守の方向を向いて建立されていたのである。

寛永寺が造営されたのは、その名のとおり寛永期である。(注4)
造営計画は、二代将軍家忠時代にあったが、寛永寺建立を具体化したのは、
三代将軍家光であった。
家光は徳川家の存続と繁栄を、武力ではなく、神仏の力に頼った人物なのである。

寛永時代に家光は、江戸城の大改修も行っている。
それまでも天守はあったが、家光によって新たに天守が立替られた。
この新たな天守が、上野寛永寺伽藍の軸線上に存在したのである。
将軍家光の江戸城天守は、寛永寺を拝む“遥拝所”なのである。
天守と寛永寺は、江戸の町にセットで存在していたのだ。

江戸城天守台の現状

江戸城天守台の現状 将軍家光が造った江戸城天守は、寛永寺の遥拝所だった。 今残る天守台は、家光が造った天守が焼失した後、新たに造られたもの。 この天守台の上には天守は造られなかった

この様な、寺と天守の関係は江戸だけではない。
同様のセットが、徳川家の先祖の地である三河の岡崎に見られる。

徳川家の先祖である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の軸線は、
岡崎城の天守とつながっている。

岡崎城の天守は、大樹寺の“遥拝所”となっているのである。(注5)
大樹寺も、家光の時代に大改修された。
江戸の寛永寺と同様の思想で整備されたのだろう。

天海僧正と将軍家光は、江戸を呪術空間としてデザインしたようだ。
征夷大将軍は武家の棟梁であり、武力の元締のはずだが、合戦を知らない三代将軍家光は、
権力行使の方向が少々歪んでいたようである。

寛永寺伽藍復元俯瞰図の解説


注1)
方広寺の大仏殿の間口は、発掘の結果から11間と考えられている。山門の規模は不明。

注2)
寛永寺は、京都の鬼門を護った比叡山延暦寺を模しており、寛永寺は東の比叡山として「東叡山」の山号を持つ。延暦寺からは琵琶湖が見えていたので、寛永寺では不忍池を琵琶湖に見立てた。

注3)
寛永寺伽藍の軸方向が江戸城天守に向う姿は、誰にでも想像できることであるが、勉強不足の藤井は先人の書を学んでおらず、作図で確認した時点にいささか驚いた。

注4)
寛永寺が建立される以前の忍ヶ丘は、数家の大名屋敷があったが、寛永寺を建てるため立ち退かされている。

注5)
岡崎市は条例で、岡崎城天守と大樹寺間の視界を遮る建物の建設を禁止している。

©Hisao Fujii