厳島合戦

弘治元年(1555) 毛利元就 対 陶晴賢

厳島合戦は海上勢力を利用した“後詰決戦”である。
この意味においては、信長が前年に行った知多半島における村木合戦と
同様な経緯を持っている。
ほぼ同じ時期に日本の東西で、その後の時代を形成する
毛利元就と織田信長が、同じ様な水軍を活用した戦闘を行っているのは興味深い。

毛利元就は広島湾の制海権確立のため、広島湾の西の入り口である大野瀬戸(宮島と本土の間の海峡)を押さえる宮の尾城に兵を入れ強化を図った。
宮の尾城は、厳島神社の北700mの海岸沿いの丘を中心とした城である。
三つのピークを持ち、尾根が海岸に突き出し、砂浜を城内に取り込んだ海上勢力の拠点となる城である。
当時の船着場は砂浜を利用するのが一般的である。
宮の尾城には二箇所の船着場があり、南の浜は「小浦」、北の浜は、「池の浦」と呼ばれた。
小浦の浜から数十mの丘の裾には井戸があり、舟への水の供給と、城内の飲料水が確保されている。
この砂浜は現在100mほど埋め立てられたが、埋め立てた場所は現在でも本土との往復船が接岸する桟橋になっている。
上陸海岸は、時代を超越し活用されている。

厳島合戦は、毛利軍が入ったこの宮の尾城を核とした後詰決戦なのである。

毛利軍の進出を警戒する陶晴賢は、宮島から毛利軍を駆逐するため、自ら水軍を率いて宮島に上陸し、厳島神社の北にある「塔の岡(五重塔が建つ)」に本陣を置いた。
この時、塔の岡の本陣を防禦するために掘られた掘切が現在も残存する。

一方の宮の尾城は海岸に接しているため、いくら兵量が多くとも陸上軍のみでは包囲できない。
海岸が開放されているのである。毛利元就はただちに、宮の尾城の浜に増援の兵員を上陸させ陶軍に備えた。
これで陶軍は一気に宮の尾城を攻略できなくなった。

城に兵を増員して長期籠城が可能になり、時間を得た毛利元就は、
時間をかけて村上水軍を味方にする引き入れることに成功する。
ここで必要なのは、水軍力ではない。
毛利軍の運搬船が、自由に航行できる保証があればよい。
毛利軍は、陶軍の攻撃にさらされている宮の尾城に後詰を行いたいのである。
後詰軍の海上輸送に成功すれば、その後は陸上戦闘で決着できる。

毛利軍主力が上陸したのは、宮の尾城がある西海岸ではなく、峰を越えた北東海岸である。
上陸した毛利軍主力は、ただちに峰を越えて宮の尾城を攻撃していた陶軍の後方に
奇襲を掛けた。
この奇襲に陶軍は壊乱する。
陶氏の当主である陶晴賢は逃げ場を失い、島内で自刃した。

宮の尾城 宮の尾城鳥瞰図

宮の尾城 宮の尾城鳥瞰図。宮の尾城の上空から厳島神社方面を見たもの。宮の尾城は、海岸に 接し、舟付きを持った城である。右の陸地は本州。

厳島神社の大鳥居から見た宮の尾城(赤矢印)

厳島神社の大鳥居から見た宮の尾城(赤矢印)。海岸の丘城であることが分かる。城 の丘の左が、本土からのフェリーが着岸する地点。

宮の尾城の石垣

宮の尾城の石垣。主郭の虎口の構えとして造られている。臨時のものではなく、合戦 後長期間この城が維持されたことを示す遺構である。

外曲輪の空堀

外曲輪の空堀。南東の尾根続きを切断した堀切から、東側を巡るもの。この規模から、戦国期の本格的築城であることが分かる。

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