関ヶ原合戦(関ヶ原の戦い)

その時、本当に家康は勝利したか

関ヶ原合戦の23日前、慶長5年(1600)8月22日、伊井直正、本多忠勝は連署で
江戸の徳川家康に書状を出した。
この日は、岐阜城攻めの前日である。

木曽川

木曽川。岐阜城攻め前日、東軍は木曽川を越え竹鼻城へ向った

通信手段に限界がある戦国時代に、数万の兵力が行動を開始して以後、
新たに別の指示を出すのは至難である。
この点を考えると、戦国期の軍事集団は、無線通信をもった今の軍隊の行動計画よりも
ある意味で、より綿密な“計画性”を必要としている。

しかし具体的に、どのくらいの計画性を持って活動していたのかはよく分かっていない。
ところが、伊井直正、本多忠勝の書状にその“計画性”の一端が現れているのである。

その書状は前日に書かれているので、当然翌日の結果を知らずに書いている。
それだけにこの書状は貴重といえる。
(岐阜城攻め時点の伊井直正と本多忠勝は、加勢であり、目付けであった)

このとき、岐阜城攻撃を行ったのは、清洲に集結した東軍諸将の集合体であり、
統一された軍隊としての最高指揮官はいない。
福島正則が代表格であるが、実戦を見ると福島軍は、地元衆の義務として最前衛をうけもち、
正則は前線指揮官となっている。
全軍を統括して指揮する立場ではない。
家康から軍監として派遣された井伊直政と本多忠勝も、まとめ役は行っても、
司令官としての機能はもっていない。

岐阜攻めの前線報告書(『参陽実録』所載)

伊井直正・本多忠勝が出した家康宛の書状を、各項目ごとに観察しょう。

「今日(22日)、竹ケ鼻城の(城主)杉浦重勝を踏み潰した。
もはや岐阜を守る砦は無くなった」とある。

竹鼻城跡

竹鼻城跡。湿地帯の微高地上に造られていた

8月21日に東軍は、全軍に命令を出して夜間展開を開始、22日朝から竹ケ鼻城を攻め、
当日のうちに攻略した。

清洲から岐阜にかけては、かつて信長が戦い、秀吉も駆け回った地域である。
秀吉子飼いの衆ももちろん地勢を知っている。
敵も味方も自分のフィールドで戦うのである。
それだけに戦いの展開が早い。
一日で竹ケ鼻城を攻略し、翌23日には岐阜城へ取りかかる段取りとなる。

「明日、諸将一同で岐阜に進撃し、攻め崩すことで評議が一決している」と記す。
この文で“作戦会議(評議)”が行われたことが確認できる。

次に、「犬山は味方のようである」犬山城が味方との記述は、
西軍の拠点となっている竹ケ鼻城や、犬山城に対し開城交渉を行い、
竹ケ鼻城とは交渉が決裂し合戦となったが、犬山城とは話が付きそうだ、ということであろう。
犬山城は八月の末に開城している。

犬山城天守からの景観

犬山城天守からの景観

次に、「大坂方は、後詰に来ないようなので、ご安心ください」とある。
ここでは岐阜城を攻めても、西軍は岐阜城の「後詰」に出てくる可能性が低い、
と東軍の“作戦会議”では想定していたことが分かる。

しかし“作戦会議”では、西軍の後詰が行われた場合についても検討がなされた。
「もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて(反撃し)
大垣城に付け入って乗り崩す。これも諸将は評議で一決した」

ここでは、可能性が低いと見積もった西軍の後詰についても、
無視せずに検討が行われたことが分かる。
“想定範囲”をしっかり広げているのである。

西軍が後詰に来た場合の対応はこうである。
西軍が後詰に出て来たら、岐阜城の攻撃は中断する。
そして、後詰軍と「後詰決戦」をすることを東軍武将全員が納得しているというのである。
戦いの優先順位が決められ、対応を誤らない段取りがつけられている。

文中の、「付け入って」とは、「付け入り」の戦法を指している。
「付け入り」とは敗走する敵を追い、そのまま敵の拠点に攻め込む戦法のことである。
「追撃繊滅戦」をしようと言うのである。

東軍は、西軍と後詰決戦を行い、勝利し、そのまま追撃を行い、
大垣城を、敗走する西軍とともに突入して奪い取る計画と、記されているのである。

この段階の大垣城周辺には、石田三成・小西行長・島津惟新の他は、
福原長堯・熊谷盛直・秋月長種等の小領主が集結していた。

しかし、宇喜多秀家はまだ大垣に来ていないので、総勢二万弱の兵力である。
一方の東軍は、福島正則等、清洲に集結した前衛部隊は約五万であり、
充分東軍に勝算はある。

東軍の事前の“作戦会議”では、岐阜城攻めの計画、後詰の可能性、そして後詰決戦を誘発した場合の戦いの目標が検討され、基本計画ができ、その上で、各部隊の配置・行動が、決定されていた。

多くの軍記物では、各部将の進撃順位や進撃路などが取り上げられるが、
井伊直政・本多忠勝が出した書状は、基本計画のみを数行でまとめている。
数行であるが、そこに記された内容は実に濃い。

この書状には誰が一番槍を入れる予定か等といった、戦術レベル以下の情報は省かれ、
最高意志決定者が必要とする内容のみを簡潔に記している。
直政・忠勝もこの時代の、優れた軍事テクノクラートなのだ。

この、理詰めで検討が行われ、その結論を淡々と実行してゆく姿に関心しないではいられない。
事実、翌23日の戦闘は“作戦会議”の想定内に収まって行われるのである。

岐阜城の現状。コンクリートの復興天守

岐阜城の現状。コンクリートの復興天守

23日東軍は、岐阜城を囲み攻め始める。
岐阜城は、急峻な崖に守られた山城である。
福島軍や、細川・京極の軍が攻めかかっていた時、西軍の後詰が長良川の合渡に現れた。
前日の“作戦会議”では後詰に対しては、城攻めを中断して全軍で後詰軍に当たる計画である。

しかし、山城に攻め入った前線の戦いは中断できない。
西軍の後詰には、城攻めに加わっていない寺沢や生駒軍が迎撃した。
西軍の後詰は弱体だった。
合渡に後詰に来たのは、大垣にいた西軍の一部であり、駆けつけた東軍の半分にも満たない
数である。

西軍の後詰部隊は東軍に押し切られ敗退する。
後詰の第二線を形成していた西軍の石田三成や小西行長の軍が、敗残兵を収容したころ
岐阜城は開城し、山頂の天守その他に火が掛けられた。

岐阜城から見た長良川

岐阜城から見た長良川

実戦で東軍は、「付け入り」の“作戦計画”を実行できなかった。
これは、城攻めを中断できなかったことによるのであろう。
西軍後詰部隊の出現タイミングが、東軍の“作戦計画”の隙間を突いた形になった。
これを東軍の作戦ミスとは言えないだろう。

西軍の後詰は可能性は低いとしながらも、後詰の可能性を検討しておいたことが、
速やかな対応につながったと観察することができる。

この後、戦いの焦点は大垣戦線へ移って行く。


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©Hisao Fujii