関ヶ原合戦(関ヶ原の戦い)

大垣城で想定された後詰決戦

岐阜城を制した東軍は、8月24日、西軍が集結する大垣を目指して進む。
そして、大垣北西の赤坂宿を中心とする地域に陣を定めるのである。
その後20日間、両軍は目立った戦闘を行わず、睨み合いの状態が続く。

この時、両軍の考えていた勝利へのシナリオは、
どのようなものであったかを、両軍の陣形をもとに覗いてみよう。

大垣に陣を敷いている西軍は、後の関ケ原の決戦場で戦った主力であるが、
この大垣にいる部隊だけが西軍なのではない。
9月10日からは大垣の西8キロメートルの南宮山に、西軍の毛利秀元、
吉川広家や安国寺恵填等が陣を敷いており、畿内には、田辺城を囲んでいる小野木公郷や、
大津城を囲んでいる立花宗茂、毛利元康、毛利秀包等、一万五千がいる。
そして大坂城には毛利輝元が毛利の主力を率いて在陣していた。

一方、東軍は赤坂宿を中心とした地点に集結したと述べた。
この赤坂は、大垣の北西にあたる。
東方の岐阜から進撃してきた東軍は、安直に大垣城の東方から、城を攻める姿勢は取らない。
北方を回り込み、大垣の北西にまで進んで陣を敷いているのである。

両軍の間を流れる杭瀬川

両軍の間を流れる杭瀬川

大垣城の西方を、杭瀬川が南北に流れている。
赤坂の東軍の陣は、この杭瀬川の西側にあり、大垣城と川をはさみ、東軍が川の西側、
西軍が川の東側の位置で対陣している。
大垣城との対陣になぜ東軍は杭瀬川の西岸に陣を敷いたのだろうか。

これは、東軍が大垣城への攻撃姿勢をとった陣形であり、
大垣城への西方からの支援を断ち切る陣形である。
セオリーから考えると、西軍は当然大垣城への後詰を行うことになる。
そうすると、そこでは後詰決戦を勃発させることになる。
この陣形は後詰決戦をイメージして構成されているのである。

そして9月14日、この戦場に家康が到着した。
この時点で東軍は、戦いの進め方について幾つかの選択肢を持っていた。

まず、その第一は、大垣城を攻める姿勢を示し、後詰軍を引きずり出し、
大垣城の西方で後詰決戦を行う、シナリオである。

その二は、後詰軍を待たず、早急に大垣城の西軍と決戦を行い、決着をつけるシナリオとなる。

しかしこの二点とも、確たる勝算の見通しがたたないのだ。
第一の後詰決戦に持ち込むには、大垣城の西軍が多すぎ、攻城戦の形にならない。
また、第二の大垣での決戦は、西軍が守りの堅い大垣城を中心に陣を張っていることから
短時間での勝利を得られず、泥沿にはまり込む可能性が高い。

大垣城後詰決戦想定第一段階

大垣城後詰決戦想定第一段階 西軍の大垣城を北西の赤坂方面から東軍が攻める姿勢をとると、西軍は西方に後詰軍を集結させる。ここまでは、実際の展開である

大垣城後詰決戦想定第二段階

大垣城後詰決戦想定第二段階 東軍の主力が到着し大垣城の包囲を完成させ、西軍の後詰を待つ。

大垣城後詰決戦想定第三段階

大垣城後詰決戦想定第三段階 大坂からも西軍が到着し、後詰決戦が展開される。

そこで東軍は、第一でも、第二でもない新たな展開を必要とした。
ここで、東西両軍のそれぞれの特性を観察しよう。

東西両軍の構成はともに複数の国持ち大名の軍を寄せ集めたものであり、
西軍は石田三成が軸となっていた。
このとき三成は、西軍のいわば「代表幹事」ではあるが、盟主と呼べるほどの戦力と人望は無く、
全軍の統率力には問題を残していた。
また後続部隊の到着時期がはっきりしていない弱点もある。

一方東軍は、家康到着以前、8月22日の書状のような合議態勢をとった構成であったが、
家康という“盟主”が到着した後は、西軍よりも統率力のある軍団となっていた。

家康が望んだ小牧・長久手の再現

規模は小さいが、関ケ原での本戦直前の両軍とよく似た状況を、
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに見ることができる。

天正12年3月に小牧城に陣を置く家康と、犬山城に陣を置く秀吉との対陣が行われた。
戦いは当初両軍とも陣地を造り、睨み合いが続いたが、本格的な戦闘は、
戦線の南東の長久手で行われている。

秀吉が本陣とした犬山城

秀吉が本陣とした犬山城

4月7日、秀吉軍の羽柴秀次、森長可、池田恒興、堀秀政等によって構成された
別動隊の動きから戦いは始まる。
この別動隊は、戦線の東を迂回し、南方に向った。
彼らは、家康側の岩崎城を攻撃しこれを攻略する。

この動きに対し、家康は翌八日手兵を率い、秀吉側別動隊の捕捉に向う。
そして長久手の丘陵地帯で捕捉に成功した。
この時点の両軍を観察すると、秀吉軍の別動隊は、各部隊がばらばらに対応しているのに対し、
家康軍は、家康という盟主に率いられ統一的な動きができている。

状況を掌握した家康は陣頭指揮をとり、各個撃破的行動で、秀吉軍の池田恒興、
森長可らの首を上げる圧勝を収めた。
野戦でのアドリブ的対応をさせると、家康の動きは無駄がない。

関ケ原の決戦直前の両軍の状況は、長久手の戦闘と重ね合わせて見ることができるだろう。
『関原覚書』には九月十五日の出陣直前、家康は岡山の陣(赤坂宿の南の丘)で
湯漬を食べ甲冑を付けながら、小姓たちに「長久手の合戦の御咄を」聞かせ出発した、
と記されている。

岡山の家康本陣跡

岡山の家康本陣跡

赤坂の陣で家康が望んだことは、大垣城のようによく準備された防禦の構えを持っていない
西軍であり、迅速な統一的行動がしにくく、大名単位でバラバラな組織をもつ西軍である。

このような西軍との遭遇戦であれば、家康は決して負けず、
各個撃破による勝利のシナリオが描ける。
だからこそ後詰決戦を待たず、早期に決戦を行う形が望ましいのである。

西軍の描いた勝利へのシナリオ

一方の西軍は、東軍との早期の決戦に臨む必要は無い。
畿内の西軍をできるだけ多く集めた後に決戦に到るか、不敗の構えをもって、
長期の持久戦を選択し、政治決着にもちこんでもよい。
畿内を抑えている西軍は、豊臣秀頼や、天皇を利用して有利な講和をまとめられる可能性も
高い。
政治的には、西軍が有利な位置にいるのである。

この西軍の戦闘シナリオも、家康の出現以前には「後詰決戦」のセオリーを念頭に置いた形と
考えられる。
ただし、西軍は統一的な行動が取れず、実際に後詰軍が結成され、
濃尾平野に出陣する正確な目処は立たない。

関ケ原以西の西軍で、前線まで出陣する意志のあるのは、田辺城を攻めている小野木公郷と、
大津城を攻めている立花宗茂が考えられるが、他は積極的な対決意志は
持ち合わせていないようだ。

西軍の名目的盟主の毛利輝元は、この時点でもまだ大坂城に居て、動こうとはしないのである。

公園化された田辺城

公園化された田辺城。この城を小野木公郷らが攻めていた

家康が赤坂の陣に到着した9月14日の夜、20日間動かなかった戦況は一気に動いた。
大垣城を中心に陣を張っていた西軍主力が西へ向ったのである。

この動きのきっかけについては、家康が「三成の居城である佐和山城を攻める」、
または竹中重門の「菩提山に陣替」(『大三川志』)と噂を流し、西軍の動きを誘った、
とされている。
実際にこのような謀略が使われたとする確かな証拠はない。

西軍には、西方へ移動する理由が存在している。
後詰軍の早期の到着を期待できない対陣を大垣城でただ続けるわけにはいかないのである。

東軍との長期持久か、毛利の主力の合流による決戦のどちらかを希望する三成が、
西方へ陣を移すのは、理にかなっている。
特に家康が赤坂に到着したのであれば、日をおかず後続部隊(このころ徳川軍主力は
秀忠に率いられ、まだ信州にいた)も合流すると考えられる。
西方に陣を移し、決戦までの時間を稼ぎ、西軍全体の合流を促す行動であろう。

三成から大坂の増田長盛にあてた九月十二日付けの書状には、毛利軍本隊を近江へ
出陣させる段取りを記しているが、十四日時点で毛利軍はまだ現地に入っていない。

大垣の西軍が行動を開始したとの情報を得た家康は、この時点では、西軍の移動目標地を
知らないはずであり、東軍としては、防禦工事がなされた陣地線に突撃する計画はありえない。

家康の頭の中の勝利へのシナリオは、西方へ移動中の西軍を捕捉し、遭遇戦を展開し、
流動的な戦況のなかで、アドリブ的陣頭指揮によって勝機を見いだす戦い方、
つまり、16年前の長久手の戦いと同様の戦い方だと推測できる。

『京極高次大津籠城志』によると、三成が9月12日に大坂の増田長盛に出した前記の書状は、高次が大津で三成の飛脚を捕らえて入手したという(大垣南方で、東軍の徳永寿昌が書状を奪ったという詰も伝わる)。

この書状は14日に家康の手に届き、家康は東軍諸将に見せたと記す。
内容は、「(大垣での)12日の談合でおおよその計画が決定された」としている。

決定された計画内容は不明だが、毛利軍の近江出陣要請や、関ケ原の松尾山城にも中国衆を入れるとの書状の記載から、関ケ原など前線への兵力展開は、この12日時点で大粋が決まったと考えられる。

問題は、この書状で三成が「(西軍)の内部が不統一で、長束正家や南宮山の安国寺恵填が
何を考えているか分からない」としている点にある。

家康は、三成が西軍内の不統一を増田にぼやいたこの一文で、
意を強くしたのではないだろうか。
この不統一な西軍なら、野戦での各個撃破が可能と家康は思ったであろう。
それも毛利の本隊が関ケ原に進出する以前に、事を終わらせるのがよい。
その西軍が大垣城を出たのである。

しかし統一が無いはずの西軍の行動は、雨の夜間行動としては、
目をみはるほどスムーズだった。
西軍は、関ケ原盆地の地峡部で、夜が明ける以前に戦線を敷き終えている。
そこは、以前から大谷吉継や小早川秀秋が陣を置いていたところでもある。

関ケ原盆地の西辺に、南北に長い陣地が完成し、地峡部を封鎖する。
この陣形での西軍の、具体的な戦闘シナリオはどのようなものなのだろうか。


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©Hisao Fujii