関ヶ原合戦(関ヶ原の戦い)

長篠に見る後手必勝のパターン

天正3年(1575)夏に、奥三河の長篠で戦いが行われた。
この戦いでは、武田軍が長篠城を囲んだ。
長篠城の後詰を織田信長、徳川家康の連合軍が行う。

このとき、後詰の連合軍は積極的な決戦に出ず、野戦陣地をつくり、武田軍と対陣した。
連合軍は主力が陣を張る主戦場で、自らは出撃せず、迎撃の構えを取る。
当時の言葉でいう「待ち戦」を行おうとしていた。

この戦い方は、武田軍に充分攻撃をさせ、武田軍の攻勢力が限界に達した時点に
反撃する作戦である。
日本の武道でいう「後の先」であり、近代軍事用語でいう「攻勢防禦」である。

「先手必勝」の裏返しの「後手必勝」のパターンである。
長篠で、織田・徳川連合軍は、武田軍の猛攻に耐え、武田軍の攻勢限界後の総反撃によって、武田軍を壊滅させた。

この後手必勝のシナリオは、長篠の戦いに参加した織田・徳川連合軍の将兵にしっかり根付き、彼らは、新たな戦いに臨んで後手必勝のシナリオ実現に努力している。

完璧だった西軍の陣地構築


南西から見た関ヶ原の戦場

南西から見た関ヶ原の戦場 (クリックすると拡大図を表示します)

話を関ケ原に戻すが、西軍は速やかな夜間移動により、関ヶ原盆地の西辺に
新たな戦線を造りあげた。
これほどの手際の良さを家康は想像できなかったのではないだろうか。

関ケ原地域は日本海側の気候と、太平洋側の気候のはざまで、
天候不順な場所として知られている。

決戦当日の朝も日が射さず、関ケ原盆地は深い霧の中にあり、西軍の位置を、
東軍は正確に把握できなかった。
家康の本陣は、関ケ原盆地の東端の桃配山に置かれ、そこからは状況はわからない。
もし、家康が当日の朝、戦争開始前に西軍の陣形や防禦工事の状況を知っていたら
戦闘を中止させていたかもしれない。

家康の本陣となった桃配り山

家康の本陣となった桃配り山

この西軍の陣形こそ、天正三年の長篠の戦い時点の連合軍の陣形と同じだからである。
家康は、長篠の戦いで防禦陣地を造り、武田軍の攻撃を抑え込み、後手必勝のシナリオどおりの勝利を収めた主役の一人である。
後手必勝のシナリオの結果が何であるかは充分理解できていたはずである。

この関ケ原では、後手必勝を仕掛けたのは三成であった。
三成は西軍主力を、関ケ原の地峡部に展開させ、防禦工事まで行っていた。
三成にとっては、この陣形を家康に見せることで、戦闘を躊躇させることが
本来の目的と考えることも可能である。(注)

西軍陣地の土塁

西軍陣地の土塁。高さは3mを越す規模がある

しかし、陣形が不明のまま戦闘が開始され、その後に西軍の陣形情報を得て、状況を理解した家康は、自らの勝利にいたる遭遇戦のシナリオが、崩壊したと悟る。

陣形がよく分からないまま東軍武将達が部分部分で戦闘を開始し、それが全戦線に波及する。
戦い始めた東軍が期待したのは、笹尾山と天満山との間の、幅約400mの平地突破である。
そこは石田軍の持ち場であり、この平地の維持が、後手必勝を完遂する必須条件であることは
三成も充分理解している。

笹尾山三成本陣跡

笹尾山三成本陣跡。右下に北国街道が通過する

いくつもの古図には、この平地の部分に柵が描かれ防禦工事がされていた様子がみえる。
ここには現在も土塁の一部が残されている。

この平地を北国街道が通っており、東軍がこの戦線を突破すると、
東軍は北近江方面へ進むことができる。
ここが最大の激戦地となることが見えていた。
だからこそ、地元の石田軍が持ち場にしたのであり、石田軍はその役目を全うしたのである。

天正3年の長篠の戦いでは連合軍の戦線で、平地の部分を徳川軍が受け持ち、
武田軍の猛攻に耐え、役目を全うしている。

関ケ原の戦いでは平地の戦線は石田軍の持ち場である。
この西軍の粘りで、攻者側に立つ東軍主力の攻勢限界が見えてきた。
後手必勝を狙う三成にとっては、勝利へのシナリオが、筋書き通り展開しているのである。

実際の戦闘1

実際の戦闘1 戦線を構築した西軍の陣地に東軍が攻撃するが、突破できず混乱する

実際の戦闘2

実際の戦闘2 家康は、戦線突破を陣頭で指揮するため、本陣を前進させる。しかし東軍は攻勢限界に達した。そこで西軍が反撃に出るが、足並みが揃わず混戦となる

実際の戦闘3

実際の戦闘3 松尾山城近辺にいた小早川軍が寝返り、西軍戦線の背後を攻撃し西軍の戦線は崩壊した

西軍の反撃開始

後手必勝を完遂するにはまず相手の攻勢を抑え込まなければならないが、
西軍はそれに成功した。
西軍はその第一条件をクリアしたのである。

家康は、埒のあかない東軍の攻勢を何とかしようと、前線に出向き陣頭指揮を行うが、
戦況は好転しない。
家康はこの時点で、天正3年の長篠合戦の武田勝頼と同じ位置におかれている。

そして、ついに三成の考える後手必勝の最終段階にいたった。
東軍は攻勢限界に達している。
ここで西軍が大反撃すると、東軍は壊乱状態におちいる可能性が高い。

三成は最後の勝利に向って反撃の合図を出す・・・。
だがしかし、反撃行動に出たのは石田軍と小西軍、宇喜多軍だけであり、西軍主力の中では、
小早川軍、島津軍や脇坂、朽木などの諸隊は反撃に加わらない。南宮山の西軍も動かない。

戦線が膠着した激戦地

戦線が膠着した激戦地

反撃は中途半端なものになった。
一気に行われるべき総反撃が不発に終わったのである。
反撃に出た西軍の一部が、今度は東軍の防禦クッションに吸収され、
時を待たず西軍は攻勢限界にいたった。

ここに両軍の最高指揮者の意図とは全く違った混戦が続けられ、東西両軍ともに、
勝利へのシナリオが霧散した。
東西どちらも主導権をもたず、混沌とした殺戮だけが個々に存在する状況でしかない。
9月15日の正午頃のことである。

関ケ原盆地内でこの時、まとまった兵力を掌握していたのは、西軍では島津軍約1500と、
小早川軍の約8000であり、東軍では家康の周囲を固める旗本部隊である。

この時の関ケ原の戦闘を、新たなシナリオをもって主導できるエネルギーを維持しているのは、松尾山の古城跡に陣を置く小早川秀秋の軍だけなのである。
家康も三成にも主導権が無い。
思いがけなくも、19歳のこの若者が、戦いを主導する席に座った。

松尾山城

松尾山城。大規模な山城跡を陣地とした

松尾山城の本丸土塁

松尾山城の本丸土塁

この小早川軍を、西軍から東軍へ裏切らせる予定で、家康は関ケ原で戦ったとする考えがあるが、家康があらかじめ西軍の野戦築城がなされた陣地攻めを計画していたとは考えられない。

小早川の陣のすぐ近くで東軍が戦ったのは、西軍に引きずられての偶然の結果である。
家康は、もっと東方の平地が戦場になると考えていただろう。
不確実な小早川の裏切りだけに期待をかけ、守りの固い野戦陣地攻撃のシナリオを作るほど、家康は不見識な人物ではない。

結果的にではあるが、小早川秀秋は、家康に加担し行動を開始することになる。
松尾山の古城と麓に陣取っていた小早川とその一党は、南から西軍の脇を突く。
この小早川の東軍参加によって西軍は壊乱し、家康はまさかの勝利を拾ったのである。
これは家康にとって主導権の無いままの勝利であった。

もし小早川秀秋が、長篠合戦のような“後手必勝”の戦闘を多く経験した武将なら、
西軍の一斉反撃に加わった可能性は低くなかろう。
彼の経験不足が家康を救ったのかもしれない。

関ケ原の戦闘で勝利を拾った家康は、東軍を掌握しなおし、追撃を開始する。
この時点で東軍の脅威は、西軍が次の防禦戦線を造り、その戦線で戦いの流れが
膠着することである。

その候補地が、現在の彦根の北の佐和山城である。
佐和山城は石田三成の居城であり、琵琶湖東方の山地が琵琶湖近くに迫り、
琵琶湖からは湾が入り込んだ地峡部である。
ここは、京・大坂ルートの遮断戦線になりうる。

決戦翌日の16日、東軍は佐和山城攻めを開始し、17日(一説に18日)に攻略した。
この佐和山城攻略は、主として小早川軍が戦い、西軍の後方戦線構築を不可能にした。
この佐和山城攻略によって、東西決戦が実質的に決着したのである。

(学習研究社『歴史群像』17号(1995年2月)および、朝日新聞社『関ヶ原合戦』(2000年9月)に掲載を、加筆訂正したもの)

(注)西軍陣地の土塁は巨大であり、夜間の数時間で完成できる規模ではない。以前から造っていたか、または賤ヶ岳合戦時点に秀吉軍によって造られた可能性


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©Hisao Fujii