名護屋城

名護屋城・巨大侵攻基地 佐賀県鎮西町

秀吉の晩年、秀吉の最後にして最大のプロジェクトであった大陸侵攻計画。
いわゆる「文禄・慶長の役」で、その前進基地として名護屋城は造られた。

名護屋城は、天正19年から20年にかけ、約五ヶ月間でほぼその骨格が出来上がるという、
突貫工事で造られている。
この工事期間は、臨時築城と呼ぶに相応しいが、その完成の姿は、
天下人の居城そのものであり、大坂や伏見の城と比べて見劣りするものではない。

これほどのものを短時間で造るには、時間をかけて造る以上にコストを必要としたであろう。
名護屋城は、日本最大の「陣城」である。
秀吉は侵攻した大陸側からの反撃に備えて、この城を造ったのではない。
名護屋城の外見は、防禦を主とした城の形態をとっているが、秀吉はあくまでも、
日本の最高実力者の住居に相応しい宮殿が欲しかったのであろう。

事実この名護屋城は、大陸からの使節との会談会場として利用された。
国際交渉の会場として利用されたことで、名護屋城を造った秀吉の目的は果たされたのだ。

名護屋城の周囲の丘陵上の多くには、大名の陣屋が設けられているが、
この陣屋も石垣で囲まれた小さな城ともいえる本格的な屋敷であり、
大陸侵攻の戦費の何分の一かは、この名護屋城周辺の築城工事に費やされたのでは
ないだろうか。

7年間にわたった大陸侵攻作戦は、秀吉の死により、参加者の誰にも益をもたらさずに、
日本軍の引き上げによって終了した。

名護屋城平面図

名護屋城平面図

名護屋城は、壱岐を北に望む東松浦半島の北西にある渡戸岬の根本の小半島の中に
位置している。
小半島は、南北約5km、東西約2kmで、標高60~100mの丘陵がうねり、
起伏の多い地形となっている。
名護屋城はそのほぼ中央、標高約90mの丘を中心に造られている。

城の縄張りと周囲の地形を見ると、以前の地形は、本丸を中心とする高地と、
弾正丸を中心とする高地があり、その両高地を削平し現在の縄張りが造られたようである。
本丸は、最高所に造られ、約120m四方の平面を持ち、北西の角に天守台がある。

この名護屋城の最良資料は、佐賀県立博物館蔵「肥前名護屋城図屏風」である。
屏風に描かれた城や城下の姿は、現地に残された遺構とほぼ一致しており、
屏風の作者は現地でこの城を見て描いたと考えられる。
復元画は、絵画資料としての屏風や、古図、発掘成果、現地踏査成果などをベースに
表現したものである。

北東から見た名護屋城

北東から見た名護屋城

丘の中央に本丸、本丸の北西角(右側)に天守、天守の西が「二の丸」本丸の東が
「三の丸」と伝わる。

しかし、この二の丸と三の丸の伝承は逆であり、本丸の東側が副郭(二の丸)にあたる。
本丸の北(手前)、斜面の下が、「山里曲輪」であり、秀吉の通常の住居であった。
名護屋城の周辺の丘に上には、大名の陣屋が造られている。

(新人物往来社『別冊歴史読本』89年6月に掲載より抜粋、加筆)

©Hisao Fujii