要害山城

武田家の逃げ込み山城

武田氏の本城は躑躅ケ崎館であるが、非常時の詰めの山城(避難城)が
「要害山城」(丸山の城)である。
この城は、館の北方に設けてあった。(積翠寺(せきすいじ)城とも呼ばれる)

武田信虎が躑躅ケ崎館を造った翌年の永正十七年(1520)に造り始めたもので、
信虎は当初から平地の「館」と、「城下町」と、「詰めの山城」の三点を、
セットでつくることを考えていたのだろう。

大永元年(1521)に信虎の子信玄は、この要害山城で生まれている。

西方から見た要害山城

西方から見た要害山城

この城の弱点は、北東方向の尾根続きである。主郭の北東には、大きな堀切が三本設けてあり、警戒を厳重にしている。

要害山城平面図

要害山城平面図

現在残る城跡の規模は大きく、虎口には石垣も積まれ、時間をかけて行われた
工事の跡が見られる。
これは、信虎以後、武田家三代約六十年間に何回か修築工事を行ったためと考えられる。

また天正十年(1582)の武田氏滅亡以後、織田・徳川政権下に整備された部分もあると
考えられるが、全体規模は、ほぼ武田氏時代に設定されたと考えられている。

城が設けられている要害山(丸山)は、城から北東方向に尾根が続き、完全な独立峰ではない。
この城の弱点はその尾根続きである。
主郭(本丸)は最高地点にあるが、そこから、弱点とみられる北東方向には、
三本の堀切を入れて防禦している。

また西方の平地に下る尾根にも多くの曲輪が造られ、十数段の平場が造り出されている。
弱点となる北東方向の防禦線に比べ、平地に面した西方の尾根はかなり切岸の段が多い印象を受ける。

この城が完全に包囲を受けて防禦戦を行う場合には、その防禦の主力は
北東の尾根続きに置かねばならず、そのために北東方向の工事を厳重にしなければならないと考えるのだが、現遺構から見ると、築城工事はむしろ西方尾根で多く行われている。

このことから、西方尾根の段の多くは防禦壁として造られたのではなく、
宅地や倉庫を建てる造成地と解釈できる。

画の手前が西方尾根

画の手前が西方尾根。

ここに多くの削平地が見られる。この段に削平された部分は、
家臣の逃げ込み屋敷が設けられた地域であろう。

この山城は、武出氏の当主一家のためだけの詰めの山城ではなく、一族や重臣、
その家族をも含めた人々にとっても詰めの山城として機能していたのだろう。

西方尾根の途中に住居の切岸とは違う遮断塁線があり、防禦区画を設けているのは、
それぞれのエリアを使用できる階級を現していると考えられる。

その西方尾根エリアのほぼ中央、北寄りに「諏訪水」と呼ばれている泉があり、
現在も水を汲むことができる。

南西の山麓には「根小屋(ねごや)」の地名が残る。
武田本家の館は山頂の主郭にあり、家臣の屋敷も山の上に造られているにもかかわらず、
麓に置かれた当主の住居や、家臣屋敷を指す「根小屋」の地名が伝わっているのは興味深い。

当時の記録によって、この要害城を常時維持管理する人々が、輪番制で城近くに詰めていたことが分かる。
その兵員の住居が置かれた場所が「根小屋」だったのではないだろうか。

南西から見た要害山

南西から見た要害山

築城以前、この山は「丸山」と呼ばれていた。
この呼称は、この方向から見た山の形によったのであろう。

(朝日新聞社『中世の城と合戦』95年7月に掲載より抜粋、加筆)

©Hisao Fujii