間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

ここが「謎」

何が謎なのかを列挙しよう。
[謎一]織田信長はなぜ前日に作戦会議をしないのか。
[謎二]丸根・鷲津の両砦はなぜ玉砕しなければならなかったのか。
[謎三]佐々隼人正、千秋四郎両名はなぜ織田信長の命令を待たず突撃するのか。
[謎四]松平元康はなぜ、大高城に無血入城が可能だったのか。
[謎五]水野信元は参戦したのか、しなかったのか。

以上のような「謎」があるが、私はこの中で、水野信元の動きが最大の「謎」と思っている。

織田信長像

織田信長像 清洲城本丸跡に立つ織田信長像

織田と今川の勢力に挟まれた位置に領地を持つ水野家は、元康(家康)の母の実家であり、
信元は元康の叔父である。
水野家に武功があれば記録されているはずである。

信元に関連した記録が無いのは、参戦しなかったからではなく、
何らかの形で参加していたにも関わらず、故意に記録が削除されたためではないか。

水野氏は、織田・今川両勢力の間で、織田・今川どちらとも無関係であったとは考えられない。
戦域の真ん中に領地を持つ水野元信の動きが、この戦いの「骨格」の一部をなしているはず
である。

さて、ここに上げたこれらの謎について、色々な解釈が出されている。
これらの謎の意味と、これまでの解釈を観察しよう。

桶狭間合戦に関する一級史料は、織田信長の家臣太田牛一が記した『信長公記』である。
以下『信長公記』を中心に見てゆく。

(『信長公記』における桶狭間の頭の部分についてはこちらを参照)

『信長公記』桶狭間合戦部分の原文

『信長公記・首巻』(前略)
十九日朝、塩の満干を勘がえ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、この夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは此の節なりと、(後略)


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©Hisao Fujii