間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

誰と軍議をするのか

「合戦の前夜に“軍議”が行われなかった」と通説は定まっている。
この通説の“軍議”とは、明日に迫った今川軍との決戦についての、打合せ会議を指している。
実際にそうだろうか。

桶狭間合戦は、織田信長が仕掛けた合戦との原点から、この部分を考えてみよう。

永録三年一月、織田信長は今川の制圧域だった東尾張の品野城を攻め取っている。
尾張内から今川の勢力を駆逐する作戦は一月からすでに開始されていたのである。
品野城攻略に引き続き、織田信長は鳴海城、大高城の攻略を計画し両城を包囲した。
鳴海城、大高城が、品野城のように織田信長の押さえるところとなっては、
三河をも勢力範囲とする今川義元にとって問題である。

織田軍の丸根砦

織田軍の丸根砦 右の小高い丘が、丸根砦。左遠方の丘が大高城。 この間は直線距離で約600mである。

彼は主力を率いて鳴海城、大高城、両城の後詰(救援)に出撃した。
攻城軍(この場合は織田軍)に対し、その攻城軍を駆逐し、城を救援するため後詰軍(この場合は今川軍)が決戦を挑む。
戦国期に頻発する「後詰決戦」のセオリーがここに整っている。

鳴海城、大高城を包囲した織田軍に、今川軍が後詰決戦を挑むなら、おのずと戦場は定まる。
織田側は城を包囲した時点で、セオリーに照らし合わせ、後詰決戦に至る
おおよその戦闘シナリオは決まっていたと考えられる。
翌日に後詰決戦が想定されるなら、予定戦場近くに主力が集結すればそれでよいのである。

戦いを主導している側にとって基本路線はすでにあり、前日の軍議は必須ではなかったと
考えられるのである。

軍議について考えるため、もう一つ確認しておきたい事がある。
決戦当日の朝、織田軍主力が清洲から戦場まで進軍した、と誤解されている点である。

鳴海城、大高城周囲には、一門の織田玄蕃(秀敏)や方面軍司令官とも言える
佐久間信盛その外、織田軍の中堅所が多く在陣している様子は『信長公記』に記されており、
決戦時の主力はすでに現地にいる。
翌日の決戦のための軍議出席者は、清洲の会議室には居ない。

鳴海城の包囲

鳴海城の包囲 今川軍の岡部元信が籠もる鳴海城を、織田軍は、丹下砦・善証寺砦・中島砦で 包囲し、兵糧攻めにする。

北方の敵である斉藤家への警戒部隊は出払っているとすると、前日清洲にいたのは、織田信長の馬廻衆、小姓衆の他は、織田信長に同行する少数の兵を持つ数個部隊と、清洲の留守部隊だけであろう。
こう見ると清洲では軍議は出来ない。

『信長公記』には、軍議が無かった、とは書かれていない、この点を見てほしい。
「軍の行は努々これなく」だけに注目してはいけないのだ。

佐久間大学・織田玄蕃の両者は、丸根砦と鷲津砦にいる。
そして伝えてきた。
明日は今川軍が「取手(丸根砦・鷲津砦)を払う」ために来るだろうと「御注進申し上げ候ところ、」の、末尾の「ところ、」が重要である。
太田牛一が言いたかった部分はここであろう。

「ところ、」としたのは、その後に続く「軍(いくさ)のてだて」が無かった、
その意外性を強調しているからである。
佐久間大学・織田玄蕃の御注進と、密着した話なのである。

だから「軍の行は努々これなく」の文を、「軍議まったく無かった」と現代語に訳したのは
間違っている、「命令はまったく出されなかった」と訳すべきなのである。

注進で「明日今川軍が攻めて来ると、自分たちは抹殺られる」と伝え、当然撤退命令が出るか、増援部隊の派遣命令が出されるのを待つ姿があるにもかかわらず、何も対応がなく、「色々世間の御雑談」を行う織田信長が描かれる。

この、撤退か、増援がなければ、佐久間大学・織田玄蕃は死ぬのである。
にもかかわらず織田信長は、何も命令しなかった。
そして一見無責任な「軍議」をしない織田信長ではなく、最前線で救援を待つ佐久間大学・織田玄蕃の危機を無視し、何の命令もせず、事実上「死刑宣告」をした織田信長の姿なのである。

このあと『信長公記』には「運の末には智慧の鏡も曇るとは、この節なり」と感想を述べる
家老の話が続く。
これは、単に軍議を行わない態度を非難しているとみるより、最前線の危機に対し、
何の命令も出さない織田信長を非難する言葉と解釈したほうが、
文面上流れがすなおではないか。

では、佐久間大学・織田玄蕃の二名が、なぜ「死刑」にされるのか、これが[謎二]である。


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©Hisao Fujii