間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

[謎二]の内容

最前線の丸根砦・鷲津砦が玉砕する。
これは織田軍にとって何のメリットがあるのか、との謎である。
普通なら決戦を前に前線の少数守備隊は本隊に合流すべきである。

結果的には、砦を攻略し疲労した松平元康の軍が、大高城の守備に付き、
決戦に参加しなかったため、決戦地の今川軍は数が少なかった。
このことから、織田信長は砦をいくつも造り今川軍を分派させ弱体化する計画だったとの解釈も出ている。

とは言っても、今川軍は織田軍の倍以上と考えられる兵数を決戦地に集中しており、
織田軍が数的に有利になったわけではない。

また、松平元康が主力に合流しなかったのは今川軍首脳の決定であり、
主力への合流が不可能だったのでもない。
砦玉砕の謎については、定説的な解釈が示されていないのが現状である。

大高城から見た鷲津砦、丸根砦

大高城から見た鷲津砦、丸根砦 手前の町並みは、江戸時代大高城の城下町だったあたり

[謎三]の内容

謎三をみよう。
佐々隼人正、千秋四郎の二部隊の合計約三百は、織田信長が前線拠点である善照寺砦の到着を確認した上で、今川軍に突撃し敗れた。

この時点で戦闘をせず、本隊と共に決戦に参加すべきと考えられるのである。
このときの死者が約五十であり、突撃部隊の六分の一である。
この参加者の六分の一の死者の中に、両隊の大将である佐々隼人正と、
千秋四郎までが含まれている。

不可解である。
この二名は、それぞれ佐々家、千秋家の当主であり、織田信長の父信秀時代から戦場の場数を踏んだ武将である。
彼らが織田信長の命令を待たず、自殺とも思える無策・無謀な戦闘で死んだ。
これを、今川軍を油断させるため、織田信長が考えた「負け戦」の演出である、との解釈がある。

また、功をあせった「抜け駆け」の結果、失敗した、との解釈もある。
私はいずれも間違っていると思う。

また、この佐々隼人正、千秋四郎の部隊が、なぜ中島砦の前にいたのかも謎である。
中島砦の守将は梶川高秀、一秀の兄弟なのである。


大高城と鳴海城を囲む砦群

大高城と鳴海城を囲む砦群(図をクリックすると拡大図を表示します。) 鳴海城、大高城の西方は海岸だった。 (国土地理院 昭和51年3月30日発行 1:25000 鳴海)

「朝合戦」

『信長公記』では、桶狭間合戦全体を「義元合戦」と呼び、合戦の中では二度の戦闘が
あったとしている。
始めの戦闘を「朝合戦」と呼び、後の戦闘を「総崩れ」と呼ぶ。

「朝合戦」は丸根、鷲津の陥落から、佐々隼人正、千秋四郎の敗死まで。
「総崩れ」は織田信長の突撃命令から義元の首を取るまでとなる。

丸根、鷲津の戦闘は確かに早朝から始まったが、三時間ほどで終了しており、
佐々隼人正、千秋四郎の戦いは、だいぶ時間を経、午後に入っての戦闘であった。
佐々隼人正、千秋四郎の戦闘からさほど時間が経過せず織田信長の総攻撃となるので、
佐々隼人正、千秋四郎の戦闘は、今川軍を油断させるならなおさら、たとえ抜け駆けであっても、総攻撃の一部と観察できるのであるが、「朝合戦」に含まれている。

単に、負け戦(前半)と、勝ち戦(後半)とに分けたとも見えるが、
わざわざ分ける必要があったからこそ、分けて捉えられているのだろう。


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©Hisao Fujii