間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

[謎四]の内容

松平元康は大高城に兵糧を入れた。自分も大高城に入っている。
これを今川の司令部から見ると、大高城に、食料・兵員の増強を行ったことになる。
当然大高城が攻め落とされないための処置である。
この行動こそ「後詰行動」である。

今川軍は、鳴海城、大高城の後詰に来た。
そしてこの段階、大高城の後詰に成功したのである。

戦国期、大名が軍事行動を行う場合、その戦場に近い在地領主が最前線に立つ慣わしがある。
今川軍が三河で行動を取ると、在地の松平軍が最も戦闘が激しくなる正面を持ち場にしなければならない。

今川軍首脳は、大高城解放の「後詰決戦」を戦わせるため、在地で最大の軍事力を持つ松平軍を、最大の激戦が予想される場所に派遣したのだろう。

しかし、思いがけなく無血で大高入城を果たした。
なぜだろう。

現在大高城の周囲を観察すると、丸根、鷲津の二砦以外に、三箇所の砦跡が残る。
江戸期の合戦古図には、大高城の東に「証光寺砦」、南西に「氷上山砦」の書き込みがある。

また、大高城の南方尾根続きの、向山に砦(仮称向山砦)の跡が残るのである。
この五箇所の砦は、ほぼ等間隔に大高城を包囲している。

しかし、五月十八日、松平軍が大高城に接近した時点、大高城の周囲には、丸根、鷲津以外には兵がおらず、大高城の南方は包囲されていないので松平軍は無血入城したようだ。

大高城本丸跡

大高城本丸跡

[謎五]の内容

そして、最大の「謎」、水野信元の件である。
水野信元は桶狭間合戦の六年前、本拠の緒川城を今川軍に攻められた時、織田信長の後詰で危機を救われている(村木合戦)。

その後、領地の三河西部から岡崎周辺の今川軍制圧地域に幾度も攻撃を行っており、
当然桶狭間時点も織田信長と同盟している領主である。
水野氏は、領域から考えると千を超える動員力がある。
このおよそ千が、桶狭間の記録に現れてこないのである。
この水野氏の謎を納得できる形で解いた説は無い。


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©Hisao Fujii