間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

謎解き

さて、ここから話を深くしよう。
以上の「謎」は、個々に存在しているのではない。
私は根本に、一つの原因となる事件があり、現在みられるそれぞれの謎は、その事件の周辺に断片的に現れた「枝葉」と推理している。

東海道から見た鳴海城跡

東海道から見た鳴海城跡 手前の道路が江戸時代の東海道。左奥の林が鳴海城跡の丘。戦国期の街道もここを通過していたと考えられる。東海道の西側(写真では右方向)は、海が近く、船で物資が着いた。鳴海城は、この東海道と、港を押さえていた城である。

触媒「水野信元は寝返った」

ひとつの仮説を用意しよう。
かつて大高城は、今川氏が押さえる以前、水野氏の城であった。
もうひとつの鳴海城は織田の勢力下の城であった、
大高城と鳴海城の間が、水野氏と織田氏の本来の領地境なのである。

永禄三年、織田信長は鳴海城、大高城の奪回を図る。
この時大高城を攻撃するには、当然同盟者水野氏の了解と協力があって、大義が生まれる。

大高城包囲は、織田信長の家臣が多く参加していても、水野信元を中心に据えて行うべき作業である。
こう考えると大高城の尾根続きの正面にある向山砦は、水野信元の陣だったのでは、
との推測が湧き上がる。
私は、水野信元が大高城攻めに参加していたと考えている。

しかし、“水野信元は織田信長を見限り今川に寝返り撤兵した”。
これまでの諸説とは切り口がいささか違っているが、この仮説「水野信元寝返り」を触媒にすると、実に多くの謎がすっきり解明できるのである。

ベールの下の桶狭間合戦

「水野信元寝返り」を触媒にすると、以下の桶狭間合戦が見えてくる。

永録三年の春、品野城攻略に成功した織田信長は勢いに乗り、水野信元を誘って鳴海城、
大高城の攻略に乗り出した。
大高城の包囲は、水野信元が向山砦に、氷上山砦に千秋四郎、証光寺砦に佐々隼人正、
丸根砦に佐久間大学、鷲津砦に織田玄蕃が入って行う。

千秋四郎の領地は知多半島の先端の羽豆崎であり、同じ知多半島に領地を持つ水野信元の
加勢には絶好のロケーションである。
砦が置かれた氷上山は、大高城の南西方、海際の丘であり、
古代熱田神宮が置かれた地とされ、現在も熱田神宮の神域である。
氷上山砦はその神域の丘に跡を残す。
熱田神宮の大宮司職の千秋氏であれば、誰に遠慮なく砦を置ける場所である。(以前から千秋氏の砦の可能性あり)

一方、鳴海城の包囲の砦と、それぞれの武将は『信長公記』に記載された通りであろう。
この包囲で、鳴海、大高両城の今川部隊は孤立し、食料が不足する事態にいたった。
東海一の弓取りである今川義元は、危機に瀕した前線の城を見捨てず後詰を行わなければ、
盟主の面目がつぶれる。
織田信長と対決すべく大動員を行い尾張へ向う。

向山砦平面図

向山砦平面図 この砦は大高城の南200mほどの位置にある。現在は堀切の一部を残す。


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©Hisao Fujii