間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

狂ったシナリオ

五月十七日であろう、織田軍に数倍する今川軍の行動を知った水野信元は最前線にいた。
彼は始まろうとする今川軍との対決に恐怖を覚えたのか、織田信長に勝ち目が無いと思い、
今川側に寝返り、向山砦から撤退する。
当然、今川や松平からの誘いの上での行動だろう。

織田信長の描いた画が崩れた。
慌てたのは、水野軍と一緒に大高城を包囲していた織田信長配下の武将たちである。
佐々隼人正と千秋四郎は、水野がぬけてほころびた戦線に見切り付け、
中島砦付近に撤退した。
丸根、鷲津両砦の佐久間大学、織田玄蕃は砦を動かない。
しかし兵力不足である。松平軍の大高入城を阻止できない。

五月十八日この事情を知った織田信長は、大高城包囲の戦線崩壊を参加武将全員の共同責任と捉え、撤退を望む佐久間大学、織田玄蕃に何の指令も出さない。
事実上彼らに「死刑」を宣告したのである。

東海道 有松宿

東海道 有松宿。 ここが戦場の中心だった。

『信長公記』の「軍の行は努々これなく」の後に続く、「色色世間の御雑談迄にて」とは、
以下の状況表現ではないだろうか。

それは、十八日清洲城内の家臣等は、丸根、鷲津に撤退命令を出さなければと、あせる。
織田信長は戦線崩壊が我慢ならず、何もしない。
織田信長は、個人的に落ち度が無く忠実な家臣また一族衆でも、
ここで見殺しにする決意ではあるが、やはり心中穏やかではない。
「世間の御雑談迄」とは、この緊迫した時間を過ごさなければならなかった織田信長の、
気を紛らわそうとする深層心理までを表現した文言であろう。

『信長公記』が書かれた時代、これを読む人は限られており、この悲劇の細部を知っている。
その人たちには、この表現で織田信長の心中が伝わるのだろう。

江戸時代にまとめられた『佐久間家家譜』には「砦からの撤退は許されなかったので、
盛重は現地で戦死した」と記されている。

中島砦付近まで撤退した佐々隼人正、千秋四郎も、当然織田信長に注進したはずである。
敵前にとどまった佐久間右偉門、織田玄蕃に何の指令も無いのである。
撤退した佐々隼人正、千秋四郎に指令が出たとは考えられない。
五月十九日朝、丸根、鷲津が玉砕した。
佐々隼人正、千秋四郎は、この事実を最も早く知る位置にいる。
ここで自分たちにも「死刑」が宣告されている事を理解しただろう。

十九日昼過ぎ、中島砦で見上げた丘の上の善照寺砦に織田信長が到着。
これを確認した佐々隼人正、千秋四郎は、今川軍前衛に突撃してはてた。
佐々隼人正、千秋四郎は織田信長との直接の会話ではなく、命を捨てた行動で会話をした。
これがこの時代の武士の美学か。
個人的には落ち度の無い四名の「死刑」が完了した。

織田信長は、当時日本最強とも言える今川軍団主力の前で、
軍律維持のため粛清をやってのけた。
小さいながら帝国を背負った織田信長の、強さと恐ろしさが同時に具現化した瞬間である。

時間は午後にまで引きずったが、この公開処刑が「朝合戦」の真相だろう。
織田軍は、この異様な「気」を持ったまま決戦展開に移るのである。

決戦地の両軍

決戦地の両軍 織田信長軍は、中島砦を出て、今川軍主力との決戦態勢をとる。両軍は東海道上で戦闘を 行う。織田軍の攻勢で今川義元は、本陣から離脱し、瀬名氏の陣方面に逃げるが、陣の手前で補足され討ち取られる。


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©Hisao Fujii