間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

以上が「水野信元寝返り事件」を“戦いの骨格”に捉えた仮説である。
私は主力間決戦に至るまでの流れは、以上のごとくであった可能性が高いと
捉えているのである。

桶狭間合戦に織田信長が勝利した後の水野信元は、また織田信長に擦り寄ることになった。
数十時間の離反だったと見る。

後の天下人家康の叔父、水野信元のこのみっともないドタバタは、太田牛一の“自主規制”で
『信長公記』から削除され、信元の出番の無い「桶狭間」が通史となったのではないだろうか。

織田信長からすると、水野信元も当然「死刑」対象である。
彼の存在意義が薄れる天正三年十二月、執行猶予が解かれ信元は腹を切らされた。

田楽狭間の「桶狭間古戦場公園」

田楽狭間の「桶狭間古戦場公園」。 住宅地に囲まれた一角である。

織田軍団とは

織田信長は「織田軍団」の独裁者である。
彼の軍団内で軍律違反が発生した時、主犯のみが処罰の対象ではなく、
関係者の共同責任として処罰を発動する。

織田信長は、実戦で一人の戦線離脱者によって戦線が崩壊し、離脱者以外が戦死する状況を
むりやり演出して見せた。

戦場における生と死は、個人的な行いの正しさと、何ら関係がない。
織田軍団はこの「戦場の論理」で動かされている。

決して強兵と評価されない尾張の兵を率い、戦国を生き延びるには、
こうした実地教育が必要だったのかもしれない。
織田信長軍団の構成員は、敵よりも織田信長が恐ろしかったであろう。
いくら恐ろしくとも織田信長配下でいることが、織田信長の敵になるより生存確率が高いのなら、そこで全力を尽くす生き方を選ばざるをえないのである。

今川義元の戦死の地

今川義元の戦死の地。 「桶狭間古戦場公園」内にある。

(2001年『歴史読本』4月号掲載の文に加筆訂正したもの)


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©Hisao Fujii