賎ヶ嶽合戦

柴田勝家は勝てた

織田信長の死後、信長の後継者争いとして起こった賎ヶ嶽合戦は、
第一次と第二次の、二度決戦が行われている。
この二度の決戦の比較と、戦われた地形を解析することで、戦いの実態が立体視できる。

この第一回目の決戦を、羽柴秀吉自らの分析を伝えているのが、
秀吉の弟秀長に宛てた書状である。
現在この書状は長浜城天守内に展示されている。
羽柴秀吉軍と、柴田勝家軍が対陣を開始したのは、天正11年の雪解けのことになる。
対陣のさなか、3月末に羽柴秀吉は前線に秀長を残し、自分は長浜城で、他方面の情報収集や連絡を行っていた。

4月2日、柴田勝家軍は攻勢に出た。この時羽柴秀吉軍の最前線は、
北国街道が通過する隘路を封鎖する塁壁が造られており、
この塁壁を正面から攻めた柴田勝家軍は突破できずに敗退している。
これが第一次決戦である。

この戦いについて前線の羽柴秀長から書状が出され、これに対して秀吉が書いた返事が
現在残されている書状である。
この内容を見ると塁壁での防禦が成功した事を喜び、次ぎに同様の攻撃が行われたときの
反撃方法が示されている。
反撃について書かれてくるが、自ら攻勢に出る計画は無い。

羽柴秀吉の書状から、このときのプランが分かる。
先手を全て勝家軍に預け、秀吉は受身で“後手必勝”を狙っているのである。
しかしそれはあくまでも勝家軍が出てきた場合であり、
現場に対しては「勝家軍を刺激しないように、塁壁から出るな」と言っている。

このとき秀吉は他方面の動きを警戒しており、賎ヶ嶽正面では積極行動を控えている。
第二次決戦の直前、小説などで出てくるように、決戦を望んだ秀吉は、勝家軍を誘い出すために自分は濃尾平野に出かけたとの考えは間違っている。

話を第一次決戦にもどそう。
この第一次決戦で注目すべきは、塁壁線で勝家軍を撃退できた事実である。
そしてその後の戦いについて秀吉は、同様な攻撃の可能性を考えていたのに対し、
勝家は、塁壁突破を諦めたのだと考えられる。

塁壁突破がかなわなければ、相手に“後手必勝”を許すことになるのだ。
この状況の上で、勝家が主導する第二次決戦が始められた。
秀吉軍側が、塁壁での防禦を考えていたのに対し、勝家軍は裏をかき、
塁壁を迂回して塁壁の後方に奇襲攻撃を掛けた。

この奇襲攻撃は成功する。
秀吉軍の前線指揮官である秀長は、奇襲軍を撃退できない。
この奇襲効果のある時点で勝家の本隊が攻勢に出ていれば、勝家軍の勝利もあり得た。

勝家の本隊が攻勢に出なかったのは、奇襲が予定の成果を上げなかった、
と勝家が評価したためであろう。
勝家は、奇襲によって塁壁線に展開している秀吉軍前衛が動揺すると考えていたが、
秀吉軍の前衛は塁壁を保持した。

勝家の本隊が動かず、秀長の兵も寡兵で動けずに戦線は膠着した。
この戦勢が固定した間に、秀吉は主力を率いてこの戦場に戻る。
そして反撃が開始された。

結果的に秀吉は勝利したが、タイミングを計って勝家の本隊が攻勢に出ていれば、
勝利の可能性は高かったのである。
賎ヶ嶽の合戦は、両軍とも勝利の可能性を持った戦場であった。

(朝日新聞社『関ヶ原合戦』2000年9月に掲載より抜粋、加筆)

©Hisao Fujii