島添大里城

島添大里城(おおさとグスク)

大里村字西原の北側、南風原(はえばる)集落の背面にあり、標高150mの琉球石灰岩が発達した丘陵上の北端部に造られており、北側から西側にかけては急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに取り入れた城で別称、島添大里城、あるいはウフザトグスクとも呼ばれ、島添大里按司(あじ:在地領主のこと)によって造られたことが「中山世鑑」に記されている。

ここ大里村は、古くは島添大里間切と称し、島尻全域における政治、経済の中心的な役割を
担っていた地域である。
また別に東大里『東代官(大里、佐敷、知念、玉城間切を掌握)の置かれた地』とも
称されていた。

大里の地名は「阿蒲察度(おうさと:尚把志時代)、阿晋察度(おふさと:尚徳時代)、務布察度(うふさと:尚徳時代)、阿布薩都(おふさと:尚徳時代)、鵜布察都(うふさと:尚徳時代)、王察都(おうさと:尚徳時代)」等と史上に記され、この地が特別重要な地域であったことがわかる。

「島添」とは、島々を支配するという意味で東四間切(南風原、大里、佐敷、知念)を勢力下に組み込み、その力で強力な政治力を発揮しており、中世~近世の時期ここでは大陸や、本土との海外交易を行い、発掘で出土した中国陶磁器、南方諸国の焼物等から、中国や南方の文化的影響をうけていたと考えられる。

大里城は、東に馬天港(まてんこう)を経て与勝半島を望み、勝連城や中城が位置しており、北側には首里城が位置する首里一帯の丘陵地、西は那覇方面を望むことが出来、その先に慶良間列島、渡名喜島を遠望することが出来る要害の地である。
この城は尚把志が最初に攻略した城でもあり、中山攻略時には把志は
この島添大里城を拠点とし、三山統一へのきっかけをもたらした城である。

大里城の石垣

大里城の石垣

大里城を北側から見る

大里城を北側から見る

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