糸数城

琉球が統一王朝に掌握される以前、沖縄本島は三つに分かれて統治されていた。

島の北部を北山(ほくざん)、中央を中山(ちゅうざん)、南部を南山(なんざん)と呼び、
それぞれ対等な存在であった。

大陸の明国に対してはそれぞれの王が朝貢した記録が残り、小王国が作られていた事が
確認できる。
北山王城は今帰仁城(なきじんグスク)であり、中山王は浦添城(うらぞえグスク)におり、
南山王城は島尻大里城(しまじりおおざとグスク)南山城にあった。

この時代は「グスク時代」の後期にあたり、この時代だけを捉えて「三山分立時代」とも呼ばれ、それは14世紀から15世紀頃にあたる。

糸数城(いとかずグスク)は、南山領域内の古くからの有力者、玉城(たまグスク)按司の
勢力下にあり14世紀~15世紀頃、玉城按司の三男(一説には四男)が城主であった。

糸数城復元図

糸数城復元図

玉城と糸数城は2Kmの距離にあり、糸数城が作られている地は、南山領域の東寄り、玉城台地の西端で城域の東辺以外は珊瑚石灰岩の急崖となり、東方のみが台地続きで、この台地続きの面に高い石塁を積み、防御区画を作り上げ、東面以外の辺にも崖の上端に低い石垣が巡っている。

東辺の高く積まれた塁壁は、屈曲しつつ突出した小丘の南西斜面を城内に取り込み、
北の崖線と南の崖線を結んでいる。

この城壁をよく観察すると、まず最初は内に塁壁が作られ、のちに外の塁壁がつくられている。
これは軍事的に厳しい三山分立時代のことであり、改修工事を必要とする軍事的緊張状態に
置かれたからであろう。

この糸数城の小丘から南方に延びる塁壁に、「櫓門(やぐらもん)の跡」と、「馬面(ばめん)」が見られ、櫓門は大きな切石積みの開口部があり城の正門と考えられ、門を出た道は玉城方面にのびる。(「馬面」とは、中国の築城法で城壁の外に凸字形に壁線を突出させた部分をいう。)

琉球の城に多く見られる側面防御を意識した塁線は、塁壁を大きく城内側に湾曲させる形態を
持つが、糸数城の場合は凸字形の馬面を用いた所に特徴がある。

©Hisao Fujii