富岡城

富岡城(戦歴を持つ近世の山城) 長崎県天草郡

キリシタン一揆「島原の乱」は数箇所で戦闘が行われたが、この富岡城は、一揆側が攻めた例である。

島原の乱が起きた時点の天草諸島は、肥前唐津の寺沢氏の領地であった。
慶長8年(1603)に寺沢氏は、天草諸島経営拠点としてこの富岡城を造った。

富岡城は天草下島から突出した半島内の山を占地した。
この山の北は、「曲崎」と呼ばれる堤防のような岬が伸び、船団の泊地を提供している。

寺沢氏は家康政権の中では、唐津湾で水軍を擁し大陸に対する国境警備の軸となっている。

また家康は、肥後の加藤清正を包囲する一環として、寺沢氏の水軍を有明海で運用する基地を富岡に求めた可能性もある。

しかし時代が下がり、キリシタンの多い天草を、遠方の唐津から統治するのに失敗しキリシタン一揆が起こるのである。
島原の乱で一揆軍が原城に立てこもるが、その多くが天草の住人であった。

天草で一揆が起こったとき、富岡城に唐津藩から派遣されていた城代三宅藤兵偉は、
一揆鎮圧に出兵するが反撃にあい敗死する。

勝ちに乗った一揆軍は、天草統治の象徴である富岡城の攻略に走った。
主将の三宅藤兵偉は死んだが、寺沢軍は城に籠もり防戦を続ける。
4日間の攻撃を寺沢軍はしのいだ。
攻城戦の準備がない一揆軍は攻略をあきらめ、後に原城に籠城する。

関ヶ原合戦後に山城が作られる例は少ないが、富岡城は近世に作られた山城であり、
近世山城の中でも実戦経験を有する希な例である。

山頂の本丸には天守は無く、背後(南方)の山地に向け、L字型に二重の多聞櫓が設けられる。
江戸初期の理想的な築城構造として「多聞城壁」が上げられるが、山城においても同様な構造が活用されたことが理解できる例である。
画は、南方から見たもの。

海岸までが城。船は城内に接岸できる。

海岸までが城。船は城内に接岸できる。

(朝日新聞社『朝日百科日本の歴史別冊・歴史を読みなおす15』に掲載より抜粋、加筆)

©Hisao Fujii