水戸城

水戸城(近世の丘城)

画は東方から見たもの

徳川御三家の一家、水戸徳川家の城である。 この城は、那珂川(画の右端)沿いの河岸段丘の果てる地にあり、背後は千波湖(画の左端)に接している。西から東に向って伸びる舌状台地の突端を利用している訳で ある。画は東方から見たもの。


水戸徳川家の居城である水戸城は、徳川的な城とはいえない。
水戸城は、関東の“丘城”である。
戦国時代に関東で進化した築城技術で造られた城である。

水戸徳川家は外曲輪を拡張した程度で、縄張りの多くは戦国大名の佐竹氏の手によるものと
考えられる。
幕末まで存在していた大手橋の擬宝珠には、「文禄五年(1596)」の銘が刻まれ、
佐竹氏在城時期に造られたものと分かる。

幕末に近い文政9年(1826)の水戸城の絵図が残されているが、城下町の橋のたもとに
石垣が記入されているのみで、城には石垣の記入が無い。
石垣をまったく使用しない城であった。

石垣の有る無しが、城の強度を決定するものではない。
地形利用と、築城工事のバランスを観察すると、千波湖と那珂川に挟まれた台地に、
効率よく堀を配置した水戸城は、かなり守りの堅い城と評価できる。

台地を分断している堀は巨大であり、自然の谷と誤解されるほどである。
水戸城は、徳川家が大幅に手を入れなかったため、戦国大名佐竹氏の築城技術を勉強できる
城なのである。

現在地形における遺構

現在地形における遺構 千波湖は江戸期の五分の一ほどになっている。本来は水戸駅の南部も千波湖であっ た。皆楽園は千波湖を借景として作られている。

本丸の東の低地に造られた水堀と城下町

本丸の東の低地に造られた水堀と城下町 本丸東方の低地開発は、徳川時代になってからのものであろう。直線的な塁壁で構成 され、水堀の幅も広い。

巨大な本丸堀を利用して鉄道が敷かれている

巨大な本丸堀を利用して鉄道が敷かれている。

本丸正門

本丸正門 市内の寺院に移築されていたが、近年、本丸内に移された。太い柱を持つ三間一戸の薬医門である。現在は銅板葺きとなっているが、本来は茅葺 であった。 この門も、佐竹氏時代のものと考えられている。

千波湖

千波湖 対岸は皆楽園方面。皆楽園は、城の乗る台地の続きにあり、外周部の支城の役目を 持っていた。

(新人物往来社『歴史読本』1998年4月に掲載より抜粋、加筆)

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