江戸城

江戸城「徳川政権の面目と築城」
無敵の徳川政権にとって、江戸築城は何を実現した事業だったのか。

江戸城本丸、北跳橋門から見た吹上方面

江戸城本丸、北跳橋門から見た吹上方面

徳川幕府の本拠である江戸城は、肥大化の過程で、幾度か占地上の防禦矛盾をきたし、
それを克服するための努力を強いられた。

江戸城の築城スタッフは、論理上で防禦形態を有利に演出する築城術をもちい、
地形的不利を懸命にカバーしたのである。

この時代、仮想敵軍事力に対抗する防禦の努力はあくまでも泥臭く、また人間臭い仕事だった。

しかし、彼らの敵対勢力は消滅した。
敵対勢力は消滅した後の、彼らにとっての築城目的は何だったのだろうか。

徳川氏以前の江戸

江戸城とその城下は、鎌倉時代に在地領主だった江戸氏の館として始まったが、
それから徳川幕府の本拠となるまでの利用目的面の変遷をみると、
次の四つの段階に分けられる。

第一段階
在来領主の“居城時代”(江戸氏、太田氏、上杉氏時代)

第二段階
戦国大名の“支城時代”(後北条氏時代)

第三段階
戦国大名の“居城時代”(徳川氏初期)

第四段階
“幕府時代”(将軍徳川家時代)

この四段階のなかで、第一、第二段階時代の、関東平野における中世城郭の防禦プランから
みてみよう。

三の丸入り口「桔梗門」

三の丸入り口「桔梗門」

関東の城の主流とは?

関東平野では、当然、周辺部の山地を除いて山城は存在しない。
平野のなかで地形上の利点を活用して造られる城としては、台地上に造られる「丘城」と
呼ばれるタイプがある。

丘城のなかでも典型的なものが、舌状台地の突端部を利用するもので、
旧江戸城域内に残されている「星が岡城」も同種のものである。


星が岡城の平面図・明治17年測量の東京の地図では、堀跡が確認できる。城の西(左側)が江戸城の城外、東が江戸城の城内になる。この丘が江戸城の外郭線の一部を形成するが、土塁を盛るなどの城壁化工事はなされていない。

赤坂日枝神社・ここが、星が岡城の副郭だった

赤坂日枝神社・ここが、星が岡城の副郭だった

星が岡の城は、現在の赤坂日枝神社とその周辺に位置していた。
南北300m、東西200mの、戦国期としては中規模の城である。
歴史的伝承はまったくないが、その構造から戦国時代中期ごろのものと考えられる。

この城は、北方の麹町台地から南に突出している比高が17mほどの舌状台地の上にある。
この南北に長い舌状台地を東西に、空堀と土塁で遮断し、主郭、副郭、外曲輪の三つの曲輪を持つ城である。

主郭部は以前、遺構を確認できたが、現在はキヤピトル東急ホテルとなり、台地が崩されて
痕跡はまったく残っていない。

副郭は現在の日枝神社の境内にあたる。
この境内の北辺には高さ4mほどの土塁が残り、その北の空堀は現在道路になっている。

さらに北の外郭は現在、都立日比谷高校の敷地である。
日比谷高校の北側の道路も堀跡の形態を残している。

この星が岡の城に見られるような舌状台地を利用した構えは、戦国期のもっとも標準的な
城なのである。

副郭と外郭との堀跡

副郭と外郭との堀跡。右が日枝神社、左が日比谷高校

副郭の土塁

副郭の土塁。日枝神社側から見たもの

戦国期の江戸城も、この星が岡の城と同様に、北方から南に延びた田安台地の南部(現在の本丸地区)を利用し、台地つづきに二重または三重に塁線を設けた造りだったと考えられている。

舌状台地の突端に防禦拠点を置いている場合、そこを攻略するには、低地方面からではなく、
台地つづきを接近経路として攻めるのが常道である。
それに備え、台地つづき方向に多重の防禦線を敷いたのである。

調布市の深大寺城、八王子市の片倉城、横浜市の小机城、青梅市の今井城など、
戦国期に武蔵地方で造られた丘城のほとんどは、この築城方式をとり入れている。

初期の江戸氏の館や、康正二年(1456)に太田道濯が改修した江戸城も、この舌状台地を
利用する防禦概念から外れるものではなかったであろう。

星が岡城の外郭北の堀切跡

星が岡城の外郭北の堀切跡、右が日比谷高校

後条氏が強化した江戸城

江戸城は、文明十八年(1486)の太田道濯の死以降、扇谷上杉氏が管理し、
本拠として利用するようになる。
その後、小田原の後北条氏が勃興し、扇谷上杉氏を圧迫する。
大永四年(1524)、上杉氏は江戸城を放棄し、本拠を川越城に移した。

江戸城を手に入れた後北条氏は、関東制圧の足場としてこの城を利用するのである。

江戸は関東平野の西の山地から延びた台地の東端にあたる。
そのさらに東方は、何本もの河川の河口と江戸湾になる。
江戸城は、水運を利用した房総・常陸方面への侵攻基地として、
うってつけの場所だったのである。

梅林坂あたり、他の虎口より小規模な構えである

梅林坂あたり、他の虎口より小規模な構えである

戦乱が激しくなる前の江戸は、水運と陸上交通の継接点として経済的にも優れた土地だった。
その機能は軍事面でも期待されたのである。

後北条氏は、天正十八年(1590)の対秀吉戦を前に、領内の城の強化工事を一斉に行なった。
現存する江戸城址に、後北条氏時代の痕跡を探すと、北ノ丸の竹橋近辺から、平川門、
梅林坂あたりの二重堀・帯曲輪が挙げられる。

この付近の構造は、入王子市の滝山城や青梅市の師岡城などの、後北条氏の城に
見られるような、台地つづきを切った堀が、岸縁を巡るという形態と、規模は違うものの
類似しているのである。

平河門の枡形、二重堀の間にある、帯曲輪へのルートを持つ

平河門の枡形、二重堀の間にある、帯曲輪へのルートを持つ

徳川期に、江戸城を近世の城として整備するため、築城の名手である伊勢津藩主藤堂高虎が
縄張りを担当するが、高虎が他で行なった縄張りと、江戸城の縄張りを比べるとかなり雰囲気が違う。

江戸城の場合、さまざまな束縛があったらしく、結果的に「高虎流」が強く現れていない。

高虎は、彼が手をつける以前の江戸城で利用できる部分は大きく変えなかった。
つまり「モデルチェンジ」ではなく、「マイナーチェンジ」的作業を行なったのではないだろうか。

こう考えると、現存の江戸城の縄張りの一部に、後北条氏時代の名残があっても
おかしくはない。


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©Hisao Fujii