江戸城

徳川家康の新しい防禦概念

天正十八年(1590)、豊臣秀吉による後北条氏攻めののち、関東の主となった徳川家康は、
江戸城を本拠とした。

徳川家康は関東諸国を領有する二百五十万石の大名である。
この最大級の戦国大名の居城として、それまでの小田原城の支城として使われていた
江戸城では規模が小さく、拡張の必要が生じた。

徳川家康が、まず文禄元年(1592)に着手したのが西ノ丸の造営である。

西の丸大手門である現二重橋

西の丸大手門である現二重橋

この時点で江戸城は、江戸氏以来の防禦概念から脱却することになった。
すなわち、本丸が置かれている田安台地南端を防禦の依り処とする思想が崩れる(または放棄する)ことになったのである。

本丸の占めている田安台地は北方から南に延びた台地だが、新たに造られた西ノ丸が乗る台地は、西方の麹町方面から東方へ延び、本丸の南西部に約100mの距離をおいて位置する別の台地である。
一つの城が、北からの台地と、西からの台地の先端部を同時に取り込んでいるのである。

この二つの台地の間の低地には(現在の千鳥ケ渕から南東あたり)、日比谷の入江に向かって「局沢川」と呼ばれる川も流れていた。
形の上では、別々の城が、100mの近距離に接近して造られている、と言ってもいいだろう。

実際、築造当初、西ノ丸は「新城」とも呼ばれ、以前からあった江戸城とは別の城と
考えられていたふしもある。

二つの城を一つの江戸城にする。

100mの距離をもって存在する「二つの城」が、「一つの江戸城」として整備されたのは、徳川家康が将軍職を拝命し、幕府が開設されたのちの、慶長十一年(1606)から同十九年にわたる拡張工事によってだった。

この工事によって、北ノ丸から、半蔵門を経て桜田門あたりへとつづく防禦線が完成した。
この新しい防禦線は、三つの要素をもって造られている。

第一は、北ノ丸地区の工事。本丸の北につく田安台地を、北の丸北方の田安門外の堀で
切断し、台地つづきの接近経路を多重に防禦できる構えとした。

第二に、吹上げ地区。西ノ丸の西方につづく麹町台地を吹上の西の半蔵門の堀で切断し、
本丸方面と同様に、台地つづきを多重に防禦できる構えとしたのである。

第三は、田安台地側(北ノ丸)と麹町台地側(吹上げ地区)の結合である。
この二つの台地の間には局沢の谷があった。
この谷を埋め、塁内で北ノ丸と吹上げ地区を一つの防禦空間にしたのである。

田安台地を切断した堀、局沢川の流れはここを通過している

田安台地を切断した堀、局沢川の流れはここを通過している

この三つの工事の結果、田安門の堀から、現在の桜田門付近までの約2500mの間に、
連続した塁線が完成した。
「二つの城」が長い塁壁で囲まれ、「一つの江戸城」になったのである。

そして局沢川の谷を埋めたため、局沢川の上流には水が溜まり、現在の千鳥ケ渕が出現した。
この水が田安門から半蔵門までの水堀になる。

溜まった水の出口は局沢の旧河道を使わず、北の田安門の土橋下に暗渠を設け北ノ丸の東側、牛ケ渕へと流した(鈴木埋生『江戸と江戸城』新人物往来社)。

千鳥ヶ渕

千鳥ヶ渕

この局沢川の流路を田安経由としたのは、慶長期(1595-1615年)の工事と考えられる。

本丸と西ノ丸の西方が二重の水堀で防禦されるまでの過程を説明したが、江戸城の水堀の
何カ所かは、標高の高い場所にダムのように水を溜めて造られている。
たとえば、千鳥ケ渕がそうである。

北ノ丸の東側の牛ケ渕も、清水門の土橋により堰き止められ、土橋の南方の堀の水面より高い位置に水面を持っている。

他の例としては、外堀の四谷、市ヶ谷、牛込が挙げられる。
これらの堀の各虎口の土橋は、ダムとして外堀を区切り、区切られたそれぞれの水堀の水位を維持している。
ダム機能を必要としていない場所では土橋を用いず、木橋を掛けて通路とした。

巨大な外郭線を完成させた徳川家光時代

幕府開設当初、江戸城とその城下をどちらの方向に拡大していくかによって、江戸城の外郭線の位置が決定していった。

徳川幕府は“商業地区”を、城の東方の、城と海岸の間に置いた。
その商業地区のなかでもっとも発展していたのが、日本橋を中心とする銀座、茅場町、神田地区であり、物流面でこれを支えていたのが、墨田川河岸と江戸湾岸の港である。

この商業地区と水運基地を軍事的に掌握する拠点が江戸城である。
しかしこのプランを阻害するのが、本郷台地の存在だった。

本郷台地は、板橋方面から駒込、本郷、駿河台とつづく大きな台地である。
本丸のある田安台地や、西ノ丸のある麹町台地とは別の台地となる。
この本郷台地は、江戸城を北方から攻める場合、攻撃の足場になる位置にある。
江戸の商業地区は、この台地のすぐ東に発達しているのである。

江戸城の防禦計画は江戸の町の肥大化のプロセスでやっかいな問題を抱えた。
複雑に入り組む関東ローム層の台地が、防禦計画をより難しくしたのである。

江戸城の築城スタッフは、この本郷台地をそのまま放置しておくと、戦時に商業地区が防築区域から外れることになってしまうので、墨田川河口を制圧しつづけるのが難しくなると危惧した。

そこで、この北方からの脅威になる本郷台地を、防禦対象地に取り込もうとしたのである。
とは言っても、本郷台地のすべてを防禦するわけにはいかない。

そこで、舌状台地の先端の一部だけを防禦拠点とするプランを実行した。
舌状台地の南端部を堀で区切り、独立した区画を形成するこの計画は、前記した中世の、
舌状台地を利用する築城法と同じだった。

駿河台の北を流れる神田川。

駿河台の北を流れる神田川。 この流れは人工の産物であり、正しくここは、江戸城の外堀である。この堀の掘削で、本郷台地から、駿河台が切り離された。江戸期、本郷台地と、駿河台を結ぶ橋は無く、駿河台は独立した高地だった。右が駿河台、左が本郷台地、駅は中央線お茶の水駅、神田川にかかる正面の橋は「聖橋」

元和六年(1620)に完成したこの本郷台地切断工事は、神田川を江戸の市街地を通過させず、小石川から東方へ直線で流す流路変更工事として行なわれている。

この工事でできた新神田川には当初、川の南北を結ぶ橋が小石川橋、飯田橋、筋遺構、浅草橋の四カ所に架けられた。
この四つの橋はどれも低地にあった。
本郷台地の上、現在のJR御茶ノ水駅付近には神田川の南北を接続する橋は架けられず、
本郷台地の南端部、現在“駿河台”と呼ばれる台地は、独立した高地を形成することになった
のである。

そして、その台地上は大名の屋敷地にせず、徳川直臣の中小旗本の居住地にした。
中級の旗本であった大久保彦左衛門も、この駿河台に住んだと伝わっている。

新神田川を、北辺の外郭線とした最外部の構えは、最終的には、牛込、市ヶ谷といった
既存の谷を利用して造られ、西方へ延びた。

四谷から赤坂の間は、麹町台地を横断する堀を設け、赤坂の低地へ外郭線を延ばす工事が
行なわれた。
そこからは、南東方向に延びる谷を利用してできた赤坂溜池を外堀に見立てた。
溜池から東へは虎ノ門、幸橋門と外郭線が延びている。

麹町台地を切断した四谷の外堀

麹町台地を切断した四谷の外堀

城を拡張させた軍事政権の脅迫概念

この外郭線の完成で、冒頭に述べた星が岡の古城跡も外郭線の一部として
取り込まれてしまった。
星が岡の南西は単なる堀ではなく、「溜池」として広い池となり、江戸市民の飲料水が溜められた空間だったので、星が岡の古城跡には、江戸城外郭の塁壁化工事が施されず、戦国期の城跡を現在に残すことになった。

肥大化した江戸を守る外郭線は、戦国期には江戸城とは別に独立して存在していたはずの、
星が岡の城を吸収するほど大きなものになったのである。

赤坂溜池交差点、ここは江戸の飲料水が溜められた

赤坂溜池交差点、ここは江戸の飲料水が溜められた

浅草橋から駿河台を通過し四谷、赤坂、虎ノ門と全長10kmを越す外郭線(外堀)がほぼ完成したのは、寛永十三年(1636)であり、徳川三代将軍家光の時代のことである。

幕府による江戸城改修の歴史は、一見、守るべき政略都市「江戸」の爆発的な膨張を、追いかけつづける作業だったように見える。

しかし、敵対勢力が皆無の三代将軍・徳川家光の時代にもなお、城を拡張しつづけるその姿は、平時下においても自らを現すために「築城」以外の表現方法を持たない軍事政権の外観だった。

前長10kmを越す江戸城外堀

前長10kmを越す江戸城外堀

(1994年 宝島別冊『徳川将軍家の謎』に掲載した文を加筆訂正したもの)


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©Hisao Fujii