神流川合戦

知られざる大決戦・滝川一益の敗退

天正10年6月、信長の死により関東も騒乱に突入する。
信長の先遣として上野を押さえる滝川一益に対し、小田原の北条氏が全力で対抗し、
滝川一益を関東から駆逐した合戦が神流川合戦
である。
真夏、河川以外の障害物がない平原での大激闘であった。

信長が踏み込んだことの無い関東で起こったこの事件は、日本史における信長の存在感を
現している。
この神流川合戦は、戦国期関東における最大の戦闘であるにも関わらず、
ほとんど知られていないのが実情である。
これは、数日間と短期間の出来事であったことと、この合戦以降、急激に時代が変化し北条氏の滅亡とともに、その経験が風化したためであろう。

信長の死は6月2日であった。
北条軍が具体的に動き出すのが、6月16日である。
このとき北武蔵を統治する北条氏邦の兵が、武蔵・上野の境界である神流川を越え
上野に入った。

これに対し厩橋城(前橋城)にいた滝川一益が17日に迎撃に出る。
そして小競り合いを行い、氏邦の兵は敗退する。
それを追って滝川軍は18日神流川を越えた。
中仙道で説明すると、神流川の南が武蔵北端の町金窪となる。
金窪は古代から中山道の宿場として、また地域経済の中心として発展していた。
滝川軍はこの戦略拠点である金窪を18日に制圧した。

18日から19日にかけて、小田原から北条氏直が主力を率いて本庄に到着。
19日北条軍は大兵力を持って反撃に出る。
平原での戦闘は、兵力の比率がそのまま勝敗に直結する。
数の少ない滝川軍は神流川を越えて敗走。北条軍はそれを追う。
“追撃殲滅戦”は神流川の北岸で行われ、『関八州古戦録』には、北条軍は3,760の首を取ったと記されている。
北条軍は和田城(高崎城)まで追撃している。

北条軍による追撃殲滅戦の効果はすぐに出た。
6月22日に滝川一益は、碓氷峠を越えて信濃に入り、伊勢へ逃げ去ることになる。

(歴史散歩友の会資料「小田原北条氏の興亡」04年2月に掲載より抜粋、加筆)

©Hisao Fujii