左沢楯山城

左沢楯山城(あてらざわたてやまじょう)

左沢楯山城(山形県・大江町)(庶民の逃げ込み山城)

以下は、山形県大江町教育委員会の依頼で、考証復元した鳥瞰図についての解説である。

寺屋敷

寺屋敷

東方から見た楯山城全体復元画

東方から見た楯山城全体復元画。 楯山城は、西方以外は急峻な地形によって囲まれ、東方と北方は桧木沢(盾の沢)が 巡り、南方は最上川と接している。この地に城を存在させることで、最上川の水運機 能を、軍事的に掌握できる。城内は、三百軒以上の家屋が林立する“山岳都市”と想定している。

特異な山城

一般の「城」は、外郭線で戦い、三の丸で戦い、二の丸、本丸とその多重の戦線を
後退させつつ戦う“求心的築城プラン”が見られる。
現在の楯山城の遺構を観察すると、この城は多重防禦線を設けて、戦線を縮小しつつ
防衛戦を行う求心的築城プランを持っていない。
多重な防禦線を設ける意思が無いようである。

14世紀の中ごろに、大江氏の一族である左沢元時(左沢大江氏)が城を構えたとされる
楯山城は、今残る大規模なものではない。

当初は、山頂部のみを守備地とする小規模な山城であったであろう。
独立した小規模な山城があったと考えられる地点は、この城内に幾つかある。
「八幡平」もその候補地である。(後述)

楯山城の最終の姿は

復元図の姿は、以下の考えに基づいている。
現在の遺構を観察すると、楯山城の最終の姿は、楯山城内は起伏の多い地形であるが、
自然地形が残されずに個々に独立した多くの段に削平されている。

そしてその削平された段の幾つかの場所の発掘では、家屋の跡が発見され、
数十年から百年以上にわたって家屋の敷地として利用されていたことが解明されている。

城域内の段の多くが、この様に利用されたとすると、各削平地の多くの“切岸”は、城壁ではなく、家屋を建てるため、平面化された敷地を造り出すため現れた斜面で、この削平工事の多くは、築城工事ではなく、“宅地開発”の可能性が高いのではないだろうか。

なお、あえて城内の家屋数を類推すると、城域には約三百棟の家屋が存在したと言える。
城域内の多くの削平地や、斜面の造成が、防禦を目的としたものではなく、家屋の敷地を
造り出したとすると、この城の主防禦線はどこにあるのだろうか。

多くの削平化工事がなされているエリアの外側、楯山周辺の、急峻な斜面がそれと
考えられるのである。

楯山の南・北・東、の各斜面は急で、約60mの高さを持っている。
この自然斜面こそが“楯山城の城壁”であろう。

最上川上流から見た楯山城方面

最上川上流から見た楯山城方面

左沢から最上川を遡ると米沢に、下ると酒田に至る。
左沢は、上流と下流で使い分ける川舟の変更地点だった。

楯山城の防禦構造

楯山城はどの様な防禦計画を持っていたのか、整理するとこうなる。
楯山城は多くの大規模な城が持っている多重の防禦構造、例えば、本丸・二の丸・三の丸・外郭と言った防禦単位で、多重の防禦戦闘を想定する構造ではなく、外側の“一重の外壁”で広い空間を防禦しようとしていたと考えられる。

「八幡平」の西の峰続きを切断することで、この一定の地域を独立した空間とすることができる。
このエリアを城内として整備した段階で、かつての小規模山城は“周囲防塁”の一部に
組み込まれたと想定できるだろう。
「八幡平」は、南北に連なる峰上であり、南方への峰を切断したと考えられる竪堀がある。

また、八幡平の北方は、土橋状の地形の東に竪堀があり、八幡平自体が独立した構えとなる
構造であり、かつて小規模な山城であったと考える根拠となっている。

土橋状の地形は、堀切の中に新たに盛られた土塁である可能性を考え、調査したところ、
堀を埋めて造られた土塁であることが判明した。
「八幡平」の北の掘切りを埋めて土塁が造成されたのは、堀切が攻め口にならないように、
全周防禦を完成させるためであったと考えられる。
楯山城のコア部分の広さはおおよそ、東西500m、南北400mになる。

この城域に入る通常ルートは、

  1. 西方の峰続き。
  2. 南方の切通し。
  3. 東方の蛇沢。

この3ルートとなる。
他にも山道はあるが、おそらく馬を伴ってこの城に入るには、この3ルートに限られるだろう。

また、この中心部分の西の峰続きにも多くの平場があり、中心部分と同様な機能が
求められていたと考えられる。

元屋敷と楯山城(山岳都市と経済活動)

約三百棟の家屋が林立するこの楯山城の姿は“山岳都市”とも言えるのではないだろうか。

しかし発掘では、食器の断片のような、生活用具がほとんど発見されていない。
百年以上使用されていながら、生活用具が見つからないのは、生活の場として
あまり利用されていなかったことを示している。

だとすると、生活の場は、山の麓に求めなければならない。
楯山の南西の麓の“元屋敷”の地は、中世において、楯山城の城下町的性格を持った地域と
考えられている。

元屋敷は、最上川水運の中継地として、重要地点であった。

元屋敷は、最上川水運の中継地として、重要地点であった。

最上川水運では、左沢の上流と下流では使用する舟のタイプが異なり、
左沢は物資の積み替え湊として重要な地点であった。
このため左沢は、物流関連の有力商人が多く根拠地としていたと考えられるのである。

この復元画は、元屋敷やその周辺に住む人々の“緊急避難場所”として楯山城が
準備されていた、と考えて描いる。
城内の水利は、水脈が浅いので比較的安易に水を入手でき、また蛇沢を要しており、
長期の籠城に耐えられる環境である。

元屋敷を中心とする左沢領の居住者が、楯山城に入る権利を持ち、
城内に自分の家屋を維持していたとの想定となる。
廃城時点では、楯山城内のおのおのの家屋は、権利を持つ者が、それを解体し再活用を図ったと想定できる。

明治の地図に見る危機管理の残照

興味深い地図がある。明治の初めの、税金を徴収するための地図である。
この地図によると、楯山城内には小さく区画された畑が多くある。
この地図の畑は現在も畑として利用されているものや、林の中に平地として形状が残されているものがほとんどである。

地図ではその畑に、持ち主の名前が記入されている。
その所有者の中には、江戸期の左沢の中心商業地区の、農家ではないと考えられる人物が、
かなりいる。


楯山城の明治初期の租税地図

楯山城の明治初期の租税地図(クリックすると拡大表示します。) 城内には細かく畑が作られ、左沢のいくつかの商家と、畑の持ち主が一致している。戦国期に城内に逃げ込み小屋を持つ権利が明治まで伝わったものと考えられる。

「元屋敷」という地名は、かつて屋敷があったことを示す地名である。
元和8年(1622)に酒井直次がこの地の領主になり、楯山城を廃して新たに小漆川城を造り、元屋敷から商家を、現在の左沢の中心部に移動させたことがわかっている。

この時に引っ越した家の数は177軒であり、この数から元屋敷には、かつて家屋が密集していたと想定できる。
この「元屋敷」の「屋敷」とは、領主の館ではなく、引っ越した商家の「屋敷」と
考えられるのである。
明治の初期、楯山の畑の持ち主の先祖は、元屋敷から引っ越して来た人物なのでは
ないだろうか。

以上のことから、かつて最上川の川湊で物流関連に従事していた集団が、戦国期の“危機管理対策”として集団ごと山城に逃げ込めるシステムを運用していたのではないか、と考えられるのである。

元屋敷の各家が、それぞれ楯山城内に、自分の家族郎党の逃げ込み小屋や倉庫を維持する
権利を持ち、危機にそなえていた、との推測である。

そして、江戸時代の平和な時代においても、左沢の商家の一部は、かつて先祖が逃げ込む小屋を建てていた“造成地”を“畑”として所有していたのではないだろうか。

戦国時代、周辺軍事力から身を守るため、庶民が集団で「城」を経営し、立て籠もる様は、
黒澤明監督の映画「七人の侍」を、数百倍大きくした姿でイメージしてもらえばよい。
戦国時代には、このような「城」もあったのである。

楯山城から見た元屋敷地区(手前)、遠方は、左沢中心部。

楯山城から見た元屋敷地区(手前)、遠方は、左沢中心部。

領主・左沢大江氏の館はどこにあったか

現在左沢大江氏の館が、どこにあったか不明である。
復元図では中世領主が使いこなせる河川として前田川に注目し、前田川と愛宕山の間が
その地ではないかと想定した。

「前田」と言う地名は、関東では領主の館の前方の水田を称することがある。
もし左沢でも同じような地名の命名があるとすると、「前田」の北側が、領主の館の位置だった
可能性が高いと考えることができるのである。
この点は、復元のための暫定案としての想定である。

なお、この時点の領主左沢大江氏を以下のように想定している。
楯山城の構造を見る限り、この城は、専制領主の城ではなさそうである。
ということは、楯山城の末期には、この地には農地をベースにした領主はあまり大きな力を
持っていなかったと考えられる。

楯山城が最終的な形状になる以前の領主、左沢大江氏は、地域領主として農地経営をベースにした武士であったと考えられるが、戦国末期には、むしろ元屋敷の、非農業従事者(物流関係者)の力が強くなり、地域に対して影響力があったのではないだろうか。
相対的に、左沢大江氏の力は弱くなったのだろう。

しかし、楯山城をコアにして危機管理システムがあることは、地域のまとめ役として
有能な人物がいたことが分かる。
この人物が南北朝以来の在地領主、左沢大江氏の末裔か否かは不明である。

発掘された部分の復元画

発掘で詳細が判明した部分のイメージ。以下の三箇所を別途描いた。

八幡座

八幡座 八幡座は楯山城の最高地点であり、シンボル的な場所である。八幡座のすぐ南の尾根は、「ゴホンマル(御本丸)」との小字があり、大型の建物があったことが発掘で解明された。櫓が建つ場所が「八幡座」。手前の大型の建物が建つ地が、「ゴホンマル」。

千畳敷

千畳敷 千畳敷は最上川を眼下に望める要地である。千畳敷の最高地点からは、切り岸の途中 から地下式の建物に入る仕掛けが発掘されている。

寺屋敷

寺屋敷寺屋敷の発掘では大型の建物と、園池を囲む建築群が発見されている。この大型の建 築物と、庭園の存在は、戦国時代の左沢地域が、文化的に高度なものを持っていたこ とを裏付けている。

(資料提供、山形県大江町教育委員会)

©Hisao Fujii