藤井戦国史

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間違いだらけの桶狭間 (桶狭間合戦)

桶狭間合戦 永禄3年(1560)  織田信長 対 今川義元

記録に残る桶狭間合戦は謎が多い。
この謎解きに、学者・小説家等、多くの人が見解を述べている。
謎解きには前提として、この桶狭間合戦の「骨格」が
どの様なものかを見定める事が重要であろう。
 
かつて桶狭間合戦は、今川義元の「上洛戦」であり、
その義元を織田信長が「奇襲戦」で討ち取った戦いとされてきた。
この「上洛」「奇襲」のストーリーは、一つの骨格を持った説ではある。
 
しかし現在「上洛戦」「奇襲戦」は共に否定された。
かつて私は桶狭間合戦を、織田信長の仕掛けた合戦と述べた
(『歴史群像』掲載「桶狭間の仕掛け人は信長だった」1996年6月 )。
 
多くの研究家は、義元が上洛の準備を行った形跡が見られないとし、
上洛説を否定しているが、私は今川義元が主導せず、
受身であったという切り口で上洛戦ではないと結論する。
 
私は、桶狭間合戦の「骨格」を、
織田信長主導の戦いとして構築しなければ、
個々の解釈が半端で間違いだらけのものになると感じているのである。
戦いの「骨格」の軸はこの「織田信長主導の合戦」である。
 
そして、その軸に、戦勢に大きく影響した事柄を加え「骨格」としたい。
この戦勢に影響した事柄を考える前に、
まず簡単に戦いの流れを述べておく。 

北西方向から見た戦場
鳴海城と大高城は、ともに伊勢湾の面した城である。この両城を織田軍が包囲し、攻略の構えを取ったことからこの合戦は始まっている。
北西方向から見た戦場

桶狭間の合戦展開図を表示

表面で見た戦いの流れ

永録三年(1560)、鳴海城・大高城を包囲した織田軍に対し、
今川軍主力が後詰に出る。
五月十八日、今川軍先方衆松平元康(家康)が大高城解放に動く。
そして元康は無血入城に成功。
その後織田軍の丸根砦・鷲津砦とにらみ合いとなる。
この丸根砦・鷲津砦から清洲城の織田信長に、
今川軍出現の情報が伝わる。
織田信長は作戦会議を行わないまま、翌十九日早朝出陣、
小姓と共に熱田へ。

清洲城跡
現在城跡は、東海道本線で東西に二分されている。本丸部分は新幹線の西側で公園となっている。
清洲城跡

この頃前線の丸根・鷲津の両砦は玉砕する。
織田信長は熱田で兵をまとめ前線拠点の善照寺砦に入り、
決戦兵力を閲兵する。
十九日正午すぎ中島砦周辺で、善照寺砦の織田信長を確認した
佐々隼人正(勝通)、千秋四郎(季忠)の二部隊あわせて約300は、
今川軍正面に突撃。
たちどころに両名は約五十騎と共に討死。
これを見た織田信長は、善照寺砦から前線の中島砦に移動、
今川軍正面に兵を展開した。
 
この時戦場を豪雨が襲う。この豪雨の晴れ際に織田信長は突撃を命令。
視界がきかぬ中、豪雨に気を取られていた今川軍は
織田軍の突撃にパニックを起す。混乱の敗走は本陣にも波及。
義元も後退するが、織田信長に補足され、ついに首を取られる。
 
これが「桶狭間合戦」の流れである。
このように見ると、この何が謎なのか、すべてクリアーと思えるが、
個々のエピソードは不可解な事ばかりなのである。
謎を謎として認識するところから開始しよう。

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