表面で見た戦いの流れ
永録三年(1560)、鳴海城・大高城を包囲した織田軍に対し、
今川軍主力が後詰に出る。
五月十八日、今川軍先方衆松平元康(家康)が大高城解放に動く。
そして元康は無血入城に成功。
その後織田軍の丸根砦・鷲津砦とにらみ合いとなる。
この丸根砦・鷲津砦から清洲城の織田信長に、
今川軍出現の情報が伝わる。
織田信長は作戦会議を行わないまま、翌十九日早朝出陣、
小姓と共に熱田へ。
清洲城跡
現在城跡は、東海道本線で東西に二分されている。本丸部分は新幹線の西側で公園となっている。
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この頃前線の丸根・鷲津の両砦は玉砕する。
織田信長は熱田で兵をまとめ前線拠点の善照寺砦に入り、
決戦兵力を閲兵する。
十九日正午すぎ中島砦周辺で、善照寺砦の織田信長を確認した
佐々隼人正(勝通)、千秋四郎(季忠)の二部隊あわせて約300は、
今川軍正面に突撃。
たちどころに両名は約五十騎と共に討死。
これを見た織田信長は、善照寺砦から前線の中島砦に移動、
今川軍正面に兵を展開した。
この時戦場を豪雨が襲う。この豪雨の晴れ際に織田信長は突撃を命令。
視界がきかぬ中、豪雨に気を取られていた今川軍は
織田軍の突撃にパニックを起す。混乱の敗走は本陣にも波及。
義元も後退するが、織田信長に補足され、ついに首を取られる。
これが「桶狭間合戦」の流れである。
このように見ると、この何が謎なのか、すべてクリアーと思えるが、
個々のエピソードは不可解な事ばかりなのである。
謎を謎として認識するところから開始しよう。