長篠が近代日本のはじまり
以下は、BS320chで放送された番組
『時空間ラジオ藤井尚夫のフィールドワーク』
「信長戦記・長篠が近代日本のはじまり」をネット用に修正したものです。
この番組は、シリーズの第五回として、2002年1月に放送されました。
BS320chは、音声とハイビジョン静止画が、
放送衛星から発信されています。
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(スタート)
(テーマ曲「近東雲/NOB CANE」)
豊川の流れ。長篠合戦(長篠の戦い)は、この豊川水系全体が戦域となった。(愛知県南部)
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(ナレーション・「タイトルコール」)
| (藤井) |
今回は、織田信長の鉄砲隊と武田の騎馬軍団の戦いと言われている「長篠の戦い」を検証してみましょう。 |
| (ナレーション) |
時空間ラジオ。今回の旅は、長篠の戦いである。 それにしても、この藤井のこの言葉、 「織田信長の鉄砲隊と武田の騎馬軍団の戦いと言われている」 この「言われている」と言う言い回しが気になる。
『藤井尚夫の時空間フィールドワーク』今回の鍵はどうやらここにありそうである。 |
−(以下放送内容を纏めたものです)−
今の競争馬は背が高い。
この競争馬は平地を走るために改良されており、
山登りには向かない種類である。
競争馬しか見たことの無い現代日本人は、
馬という動物は山を登れないと勘違いしていることが多い。
武田家の本拠は、甲府の躑躅(つつじ)ケ崎館である。
この躑躅ケ崎館で、戦国時代の馬の骨格一体分が発掘された。
埋葬された場所、そして丁寧な埋葬から、
それは当時の有力武将が乗った軍馬に違いないと考えられている。
この武田軍の軍馬を現在の競争馬と比べると、とても小さい。
これが武田軍の軍馬の実態だったのである。
発掘された馬骨の復元。
馬の背の高さは、肩の骨までを計る。武田軍馬の背高は百二十センチメートルしかない。鹿ほどの大きさだ。しかし、骨太で、筋肉が発達していたことが分かった。(資料提供甲府市教育委員会)
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サラブレッドは、武田軍の軍馬より50cm以上も背が高い。
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復元された軍馬は、短足で骨太である。
この馬は、山登りが得意な馬だ。
山地が多い武田軍の行動範囲では、馬は山登りをさせなくてはならない。
この山登りをする馬は平地を早く走れず、
戦場で突撃をさせる馬ではない。
戦国時代には、山城が多く造られた。
山の上まで上るのは大変であるが、
上級者は馬で山城に登っていたのである。
自分の足で登る家来は大変だが、殿様には馬があった。
馬は、エレベータか、エスカレータなのである。
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山に登る小型馬
これが武田軍団の馬だった。短足で骨太、筋肉が発達した体格は、現代の競争馬とは別の種類である。
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藤井の城郭研究の師である故鳥羽正雄博士の家に、
藤井は子どものころからよく遊びに行っていた。
そこで鳥羽博士から聞いた話がある。
鳥羽博士が、地方の山城の調査を頼まれて現地に行ったところ、
小型馬が用意されており、山の上へ馬で登って調査した、
と言うのである。
昭和30年代までは、山に登る道具として馬が認識されていたのである。
戦国時代の馬も同じだった。貴人は馬で山を登ったのだ。
山城は馬の存在があって始めて築城と運用が可能だったのである。
上原城復元図
上原城は武田氏の重要な支城である。(長野県茅野市) 戦国時代の山国には山城が多くあった。 山城は攻められにくいが、生活には不便と思われている。
しかし馬がエレベータとなって人や物資を運んだ。
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馬の年齢は歯の減り方で見る。
躑躅ヶ崎館で発掘された馬は、12歳ほどと、調査報告書にある。
人で言えば、40歳ぐらいになる。
大人の馬であるが小型であり、この馬の頭は人の背より低いので、
人込みでは馬は見えなくなる。
競争馬しか知らない人には、信じられないような馬の姿なのである。
しかし、発見された馬は肩甲骨が大きい。
肩甲骨の大きな馬は、前足の筋力が強く坂道を上り下りした
証拠なのだと言う。
この馬は、平地を素早く駆け回る馬ではない。
山地の多い甲斐、信濃を領地にした武田家の馬は、
山を登れないと使い物にならなかったのだろう。
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発掘された武田軍の軍馬は、背は低く、短足であるが、筋力が強く山を登る馬である。西国の馬に比べると一回り小型になる。
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馬は、山を越えて敵地に侵攻するとき、
人と、戦略物資を運んでくれる存在にならなければならない。
馬は、戦場で突撃する以前にまず、
目的の戦場にたどり着くための移動手段なのである。
江戸時代の軍学書に、騎馬と歩兵の関係を見よう。
甲州流の軍学書には、騎馬兵が集団で行動する仕組みは解説されていない。騎馬兵は、歩兵を指揮する上級者であり、突撃時は歩兵を率いて先頭を進むが歩兵と共に行動する。その突撃の早さは、歩兵のスピードに合わせなければならなかった。写真の右ページは狭い地形を、歩騎混合チームが二列縦隊で進む図。左ページは、広い地形を横隊になって進む図。上が進行方向。(『兵法雄監』より)
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騎馬兵だけで構成された「騎馬軍団」という概念は、
日本の軍学には無い。
江戸期の軍学は、戦国期の軍事情報を纏めたものである。
一部の上級者しか知りえなかった戦略的情報で
欠落したものはあるだろうが、
個人行動を基本にした戦闘情報は欠落しにくい。
軍学書に現れない「騎馬軍団」という概念自体が、
戦国期に無かったのだろう。
戦場の観察
軍馬のイメージがすこし変化したところで、実際の戦場を観察しよう。
これは、長篠の古戦場に復元された観光用の「馬防柵」。実際の防壁は背後の丘陵の中に、切岸や空堀の形で残されている。
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長篠の合戦(長篠の戦い)は、織田・徳川連合軍が
武田軍の攻撃を支えるために馬防柵を造ったと記録にある。
現在戦場跡には柵があるが、当然最近復元したものである。
しかし、ちょっと戦域内の丘陵をフィールドワークすると、
空堀や切岸が見つかる。
それらは繊田軍の防禦線の跡だ。
戦域に防禦工事跡が残ることが知られるのは、
先人の方々の努力の結果である。
同様の遺構は、他の多くの古戦場にも残されており、
多くのフィールドワーカーによって戦国の戦場が解明されつつある。
織田軍の陣跡と考えられる切岸。武田方に「城攻めのようだ」と言わしめた織田軍防禦陣地は、この様なものを指しているのではないだろうか。
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「馬防柵」とは、単なる木の柵ではなく、
堀や、切岸全体の防禦線を指しているようである。
織田・徳川連合軍は、この防禦線内で戦う姿勢を示している。
しかし、なぜ織田・徳川連合軍は、柵や、堀などを造ったのだろうか。(注)
連合軍は、2万以上の兵力がある。
一方の武田軍は1万以下の兵力とされている。
兵力が多い繊田・徳川連合軍が防禦線を構築し、
防禦戦法を採ったのはなぜだろうか。
北方から見た戦場 両軍の間を流れる川が連吾川 織田・徳川連合軍は、台地の斜面を用いて防禦線を敷いた。
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連合軍の戦いかたは常識的ではない。
連合軍は後詰軍であり、かつ兵力が多いにも関わらず、
先手に出ず、後手に回ったのである。
さて「先手必勝」という言葉がある。
先手を採ると本当に必勝なのかと言うと、
必ずしも先手に出た側が勝利しているとは限らない。
この長篠合戦(長篠の戦い)もそうである。
両軍の間を流れる連吾川。
左の丘が織田軍の陣。
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(注)連吾川沿いの台地に残されている切岸や堀は、元亀二年に長篠城を武田軍が掌握した時点に、武田方の行動を押さえるため、徳川軍によって造られたものも混在する可能性がある。